戦記執筆を命ぜられ、まず主力をそそいだのは資料集めであった。文章技巧で読ませる表現ものではなく、素材ものなんだから―と二十年の沖縄戦の実相を、なまなましく遺族をはじめ読者に伝えようと考えた。生還者を調べ、連絡をとったが、「筆舌につくしがたい」「記録は米軍にとられてなにもない」「いいたくない」などの返事が多く、思うように集まらなかった。米軍に頼むのは気がひけたが、しかたなく戦闘写真の提供を願った。
なぜ、生還者は記録、資料の提供をこばむのか―この疑問はことし一月二十六日、釧路駅前釧正館で開かれた沖縄同友会総会にまぬかれて、その大要をつかむことができた。生還者たちは、全員負傷し、あるいは一時失神した人々ばかりであった。彼らは、そのみじめな体験を思い出したくなかった。公表もしたくなかった。戦友の遺族にあわせる顔がない―といい、遺族との接触さえさけていた。
この釧路の人々は、記者の沖縄特派(二月中旬から下旬まで)の壮途を祝って総会を開いてくれたものであった。みたまにささげた一尾の魚を、みやげものにくださった。しかし、生還者が沈黙を守っているかぎり沖縄戦の実態は、遺族にも一般世間にも知られることがない―調べるだけしらべ、集めるだけあつめ、あらためて生還者と対決しよう―そう決心して沖縄へ渡った。山三四七四部隊の今井要さん=沖縄護国神社=や宮平繁さん=北海道友の会会長=の協力を得て現地を踏査した。記録類も持てるだけ持った。八十人の北海道友の会を結成し、帰札後不足した記録があった場合補充してくれるようたのんだ。
帰札してからの生還者は、記者を戦友として迎えてくれ、資料も使いきれぬほど提供してくださった。(この貴重な資料は紛失しないよう、全部、沖縄会に保管をたのんだ)
八月十五日、北海タイムス社が主催し、戦後初の沖縄戦没将兵慰霊祭が行なわれた。また、遺族、生還者一丸となった北海道沖縄会が結成され、郷土に沖縄戦戦没者の記念碑を建てよう―との声が高まった。原田札幌市長は、西条会長ら沖縄会代表に藻岩山ろくロープウエーの土地の貸与を約束。十二月一日、巡拝団百三十人は、とし老いた遺族を生還者がいたわり、海を渡った。
那覇港での盛大な歓迎。慰霊祭。涙と祈りの巡拝行―遺族たちは、この感激のむけばに迷ったかのように記者のもとにビール、タバコ、弁当、オリンピック銀貨などの贈り物が殺到した。
〈ふたたび、この人々のために立ちあがる日がきたら、よろこんで全力を傾注しよう〉ありがたくおうけした。
北海道沖縄会(西条幸一会長)は、巡拝行をすませたいま、あらためて重責を感じ、十八日午後六時から理事会を市内北四西五、大学荘で開き、沖縄巡拝団参加者の思い出を語る会や、沖縄戦生還者の全道新年交礼会、戦没者の記念碑建立などの事業、催しを決め、さかんな活動を行なっている。
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