006元日も空襲 苦戦激闘の前兆 星空にスパイの信号弾

 川平部落(北飛行場から五キロ北の海岸、残波岬に近い)で陣地を作っていた野砲兵第四十二連隊(山三四八○部隊)第一中連隊第一小隊は、陣地を十一月に完成、十二月を迎えた。河本上等兵は夕食後、星空をながめ、鼻歌を歌いながらドラムカンの“湯舟”につかっていた。

 突然、パン、パン……シュー…と音がした。ふりかえると、後方約三十メートルのソテツの茂みのなかから、赤白交互に三発の信号弾が上がった。スパイだ!河本上等兵は裸で銃を構え「だれか?…だれかッ」とどなった。

 雑草がサワサワと揺れる。戦友と四人で小銃を乱射。その音でみんなが幕舎から飛び出してきた。小隊全員で包囲し、茂みに踏み込んでみたが、だれもいない。虫の音のなかに、発煙筒が残っているだけだった。

 その後も、たびたび信号弾が上がった。あちこちの海岸から何ごとかを合図するらしく、これに答えているのだろう海上で明滅する信号灯も見えた。“スパイが上陸している”―うわさが広まっていた。こういうできごとが、その後の沖縄戦を、血で血を洗う陰惨なものにした。

 南部一帯(島尻郡)にいた武兵団(第九師団)のあとへ、中部一帯(国頭郡)にいる山兵団各部隊の移動が十二月十日、大雨のなかで行なわれた。歩兵第三十二連隊第二歩兵砲小隊は北飛行場付近から米須(こめす・現在北霊碑がある)から西へ一キロの山城(やまぐすく)部落へ到着。歩兵第八十九連隊連隊砲中隊は国頭郡太田部落から東風平(こちんだら)に着き、それぞれ作業を開始した。

◇山城部落の撫養兵長の手記

 武兵団の小銃、機関銃陣地は、八分どおりでき上がっていたが、新しく、歩兵砲陣地を作らねばならなかった。ここの住民は前の国頭の住民とは違い、われわれに好感をもってくれないのは残念だ。めしは一日一回、あとの二回は、おかゆのなかにサツマイモの葉を、どんといれ米粒はあまり見あたらない。文句をいう者もなく、重労働がつづいた。

 二十年の一月一日、午前三時に非常呼集がかかり、全員戦闘準備で配置についた。五時解除。集合して皇居を拝し勅諭奉唱、天皇陛下万歳を叫び散会。南国で初めて迎えるお正月である。兵舎でいそいそと朝食の準備をしていた。海上に爆音がする。出て見ると、米軍機約三十機。あっという間に一番機が米須砂糖工場を銃爆撃。ふき上がる土砂、黒煙―小銃と歩兵砲では、いかんともしがたい。米軍機は思う存分あばれまわり、夕方、海上に消えて行った。

◇東風平の満山上等兵の手記―

 二月になると、島尻一帯は、高度を下げたB―17の偵察がひんぱんとなり、突然、頭上を双胴のロッキードP―38がかすめ度ぎもをぬかれる。(満山上等兵は付近の友寄部落で下士官候補生の特別教育を受けていた)

 前半の歩兵砲訓練が終わると、米軍のM1戦車、M4戦車の構造、登載火器の説明を受け、肉薄攻撃の猛訓練が始まった。

 十キロの黄色火薬を箱詰めにして胸にさげ、道ばたのタコツボから戦車の下へ投げこむ。首に結んである糸が信管を作動させ三、四秒後に爆発する。これを試作したのは、輜重兵第二十四連隊(山三四八〇部隊)の兵器部で委員長は吉田武中尉(登別温泉出身)帯広の杢(もく)大伍長は、部下として作業員一同とともに決死的な作業を続けていた。陣地はあとで激戦地となる八重岳付近にあった。

 黄色火薬は、キャラメルの箱大に一つずつ包装され、石のように堅い。包装をとり、カナズチで細かくくだき粉末にする。作業員は全員、真っ黄色。粉は口や鼻にはいり、ものすごくにがい。一方に、ドラムかんを二つに切り、ふたをつけていある。ふたの中央に、バケツがはいるようになっている。バケツに粉末の黄色火薬を入れ、ふたの穴に入れる。

 ドラムかんには、軽油がはいっており、これを木炭で熱する。軽油は百二十七度で発火し火薬は百二十三度で爆発する。軽油を百二十三度まで熱すると、黄色火薬は百二十一度で溶ける。すぐ、バケツを取り出し溶けた火薬を型に流し込むのだが、一秒のゆだんもできない、まったくおそろしい、命のちぢまる作業だ。

 米軍が新しく採用したM4戦車は、二百ミリ以上の鋼板でできているといわれ急造爆雷は、対抗上製造されたもの。末期には信管が不足し、手りゅう弾を代用にした。二月三日、第二十四師団長雨宮巽中将、輜重兵第二十四連隊長中村卯之助大佐はじめ、師団、部隊の幹部将校の前で十キロ急造爆雷の試験が行なわれ、大成功だった。

沖縄戦・きょうの暦

4月6日

 第三十二軍は八日から北。中飛行場を攻撃せよと、第十方面軍命令。米軍は、首里南方五キロに迫る。

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