沖縄航空戦に勇名をとどろかした特攻隊員は、山兵団の所属ではない。だが、このなかに、本道出身者も参加しており、沖縄戦の経過上、説明の必要があるので、概略を書き残しておこう。
米軍機が爆撃をほしいままにし、艦隊が砲撃をくわえているのに、日本の航空機、軍艦はなにをしていたのか。
沖縄戦にのぞんだ日本海軍の兵力は連合艦隊は、戦艦、空母各五隻、巡洋艦、駆逐艦あわせて約三十隻。燃料なく、乗員も不足、戦力ほとんどゼロ。その他、潜水艦五十隻、小型水中特攻兵器約五百、水上特攻艇二千があった。のぞみは約二千機の基地航空部隊にかけられていた。海軍軍司令部は、戦局の推移から、つぎの米軍上陸地点を沖縄と推定したのが、二十年二月十日。第五航空艦隊(六百七十機)を編成して、九州、四国、南西諸島に配備。さらに近畿以東に第三航空艦隊(約八百機)。台湾に第一航空艦隊(約三百機)をそれぞれ配備した。訓練中の第十航空艦隊(約四百機)も作戦部隊にあらため、戦闘態勢をとらせた。
二月十三日、第五航空艦隊(司令長官・宇垣纏中将)は南九州鹿屋(かのや)一帯に移動、地下ゴウ、森林中の格納庫、秘密滑走路などの作業をすすめた。
三月十八日午前三時五十分、一式陸上攻撃機(中攻)三十六機、重爆撃機二十四機を先頭に戦闘機、軽爆撃機などの夜間攻撃隊が、北上中の米軍機動部隊を攻撃した。(空母イントレピットとエンタープライズが被弾。駆逐艦、潜水艦各一隻も損傷をうけた―と米機動部隊司令官シヤーマン少将は手記に書いている)これに対し、米軍機のべ三百七十五機は、午前五時から十時にかけ、南九州基地をおそった。航空戦は十九日もつづき、米軍シ少将は、空母ヨークタウン、ワスプ、エンタープライズ、フランクリンが直撃弾をうけたと記録している。
二十日、日本空軍は、退却する米機動部隊を追撃、空母フランクリンは大爆発、その他一隻にも体当りして火災を起こさせた。二十一日、一トンの爆薬をつむロケット推進一人乗りの特攻機「桜花」(神雷部隊)十六機が中攻十八機につるされ、援護戦闘機三十機と出撃したが、米グラマン戦闘機約五十機にぶつかり、中攻は桜花を捨てて戦ったが十数分で全滅、日本機は一機も帰らなかった。人間ミサイル桜花は、まだ、実戦用にまで開発されておらず、グラマン機の高性能の勝利だった。
この四日間にわたる九州沖空中戦は、沖縄決戦の前しょう戦で日本軍は百六十一機を失い、米空母五隻を撃破した―と推定した。
四月一日米軍の上陸を目前に特攻機は出撃せず、戦闘隊形をととのえた。訓練中の第十航空艦隊を宇垣長官の指揮下にいれ総兵力は一千八百十五機(うち特攻機五百四十機)となった。海軍は、陸軍の第六航空軍(五百五機)と協議し、海軍機は米機動部隊を、陸軍は米輸送船団を攻撃することを決め、訓練中の海軍機は、陸軍機に協力、米機動部隊を北方にさそうことになった。
二日夕暗のおとずれとともに沖縄周辺の米艦船に、日本機の猛烈な特攻攻撃がはじまった。三日ごろには、慶良間列島の安全な船だまりは、損害をうけた艦船で、いっぱいになりだした―と米・ボールドウイン記者は回想記に書いているが、特攻機に関するいっさいのアメリカ側報道は、四月十二日、ルーズベルト大統領死去の日まで発表禁止になっていた。
また、前述の「桜花」については「この日本軍の特攻機(桜花)についてうんぬんすることは、六カ月間も禁じられた。この戦争のなかで、いや、あらゆる戦争の中で、最もものすごい物語の一つを、われわれの打電するニュース記事から、まったく黙殺しなければならなかった」―と米従軍記者ロバート・シヤーロット氏は書いている。
神風機、特攻機については、書くことはたくさんある。スペースがあれば後述することにして、ここに米連合艦隊司令長官アーネスト・J・キング元帥の「キング元帥報告書」の一節をかかげ、つつしんで特別攻撃隊隊員のめい福を祈る。
元帥は、この戦いは、太平洋戦争中一番苦しい戦いだったと書き、この作戦に参加した日本海軍機は、延べ二千八百六十七機、そのうち約七百機の尊い犠牲のあげた戦果は、米艦艇三十六隻の撃沈と三百六十八隻の損傷、米軍機七百六十八機の損失であった。
第五航空艦隊宇垣司令官は、八月十五日、終戦の御詔勅を耳にしながら、爆撃機に乗り、沖縄の米艦船群に突入、部下隊員のあとを追った。
◇資料の提供をお願いします
「七師団戦記・あゝ沖縄」を完ぺきなものとするため、沖縄戦の記録をお持ちの方または体験された方、関係者をご存知の方は札幌市大通西四北海タイムス社戦記係(③○一三一)までご一報ください。
また沖縄戦没者アルバムを作成しますから、顔写真をお持ちの方は部隊名(連、中隊)階級氏名、遺族の住所氏名を明記してお送りください。
沖縄戦・きょうの暦
4月8日
大雨が降る。米軍は日本軍の強力な抵抗をうけ、大山、津覇の線にくぎづけになる。
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