歩兵第八十九連隊(山三四七六部隊)連隊砲中隊は、米艦隊の陽動作戦にたぶらかされ、四月下旬まで島尻の守備陣地を離れることができなかった。その状況を第一小隊第一分隊の満山上等兵の手記から―
三月十日夜、下士官候補者教育隊の村西教官、芦田曹長らに別れを告げ、東風平の中隊に復帰した。各分隊は、それぞれワラ屋根の掘っ立て小屋におり、満員ではいれない。復帰した私(満山)、松屋、径堂、村西の四人で一班をつくり、第二分隊(分隊長清野伍長)の陣地構築の手伝いを始めた。
陣地は、湊川部落を見おろす高台にあった。三月二十三日朝、空をおおうグラマンの大群に驚いたが、昼になると海上数キロに迫った米艦隊の数にぎょうてんした。米艦船は午後から海岸線に接近、甲板を歩いている米兵の姿が見える。ピカッと船首付近が光った。
「あッ、撃った!」
第一弾は、なぎさに水柱をたて、第二弾は、目をまるくしている道産子たちの頭上を越え、後方でサク裂した。同時に数十機のグラマンが漁船、部落に機銃掃射と爆撃を開始した。グラマンは超低空、操縦士の顔がはっきり見える。艦砲と機銃掃射の洗礼に、兵隊はゴウへ逃げ込むことも忘れていた。斎藤弘達弾薬手の左太モモに機銃弾命中、ちぎれんばかりの重傷で三十分後に絶命した。かわいそうなやつだと、夕方、穴を掘り、みんなで弔ってやったが、不運なのは土をかけてやった自分たちであったことがあとでわかった。
帰隊命令がきて中隊へ戻り、甲号戦備が下令された。徹夜の弾薬受領だった。その戦闘配備命令は―
▽第一小隊長中田見習士官(東京)▽第一分隊長久米千鶴夫伍長▽砲手一番森上等兵、二番大塚一等兵、三番村上上等兵、四番満山上等兵、五番村西上等兵、六番以下弾薬手数人▽第二分隊長清野伍長。
▽守備陣地=湊川の西方三・八キロの仲座部落▽攻撃目標=湊川街道を北上する(と予測される)敵戦車および重火器。
第一小隊は二個分隊(砲二門)と観測班で編成され、移動は夜。狭い夜道は歩兵部隊と避難民で、ごったがえし。そのなかをかきわけ、仲座部落のガケ下のゴウに着いた。ここに小隊本部をおき、第二分隊は本部から五百メートル湊川寄りの陣地についた。
第一分隊は本部から二キロ北方の八重瀬岳のふもとに布陣した。ここからは仲座部落が射程内にあるが、陣地が未完成。敵を目前にして構築を始めた。昼は戦闘体制、夜は作業で不眠不休。四寸煙突くらいの大きさで白い尾をひき、シューッと音をたてて飛んでくるやつ―ロケット弾が、小隊本部に命中。中田小隊長が土砂くずれで埋まった。小隊長当番は朝鮮出身の金田竜善―誠実な、おとなしい、頭のいいやつだった―が、フラフラと倒れた。小隊長は無事救出されたのに、金田は失神。古年兵島田上等兵が金田の顔に水をかけ、ビンタをとったら、やっと正気に戻った。
四月一日夜、米軍上陸の連絡があった。久米分隊長が隊員を集めた。
「明朝、敵軍の湊川上陸は必至である。各自は、平素の訓練をじゅうぶんに発揮し、任務をまっとうしてくれ、今夜は、早めに寝ておけ」
ロウソクに照らしだされた、みんなの顔は上気し、目がギラギラ光る。
「ようし、やるぞ!」「ヤンキーめ、みな殺しだ!」
どうくつ内に興奮した声がこだまし、戦意が高まる。私(満山)は、星空の下の大砲に近寄り、閉鎖器に手をふれた。ひやりと冷たい。一発でM4戦車を仕止めることを祈った。
二日も上天気。部落の焼け残った家々が、ひっそりと朝日を浴びていた。その夜の情報によれば、米軍は湊川正面に上陸用舟艇群を集結、水陸両用戦車を先頭に、波打ちぎわまで押し寄せては引き返していく。敵の上陸は時間の問題だ―という。
海岸の基地には、地雷、爆弾、ドラムカンに入れたガソリンを埋めてある。上陸軍の第三波が上がると同時に一斉砲撃をくわえ、海岸を火の海にする作戦だ。
だが、七日たち、十日たっても上陸してこない。戦況報告は一喜一憂。イライラするだけだ。日がたつにつれ、みんなの緊張がゆるみ、退屈になってきた。四、五人つれだちゴウを出て民家へ遊びに行った。昼はだれもいない。散らかした家の中の家財道具をながめた。戸だなの中をのぞく者、蛇皮線(だびせん)=沖縄のヘビの皮の三味線)をならす者。豚の油を、しっけいする者、たんすの奥から出てきた産婆講義録に奇声をあげる者など。グラマンの爆撃、機銃掃射の下で、スリルを楽しんでいた。多少の罪悪感はあったが―。
◇資料の提供をお願いします。
「七師団戦記・あヽ沖縄」を完璧なものとするため、沖縄戦の記録をお持ちの方、関係者をご存じの方は札幌市大通り西四北海タイムス社戦記係(③○一三一)までご一報ください。
また沖縄戦没者アルバムを作成しますから、顔写真をお持ちの方は部隊名(連・中隊)階級氏名、遺族の住所氏名を明記してお送りください。
沖縄戦・きょうの暦
4月13日
十二日夜から十三日未明にかけての日本軍の夜襲失敗。攻撃を中止する。
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