022神風賦 本島に上陸開始 最大の水陸作戦

 当時、新聞は軍の強力な言論統制下におかれ、批判的なことは、いっさい書けなかった。

【昭和二十年四月一日付け・朝日新聞社説】

 神風賦

 琉球列島が太平洋にあって、きわめて要衝の地位を占めていることは、古くから、この島嶼(しょ)が東洋貿易の中心であり、アラビア商人が、遠く西亜から印度を経て、この地にきたり、東洋の物資を蒐(しゅう)荷したという事実によっても知られる。アラビア商人は、マゼランがアメリカを迂回して、太平洋を発見したよりも、はるか以前にこの地に来て貿易の利を収めていたといわれる。

 日本人に、琉球がいつごろから、知られ始めたかには、筆者のごとき素人(しろうと)のつまびらかにするところではないが、豊臣秀吉が天下を掌握した頃、この島々が当時の日本人の関心事であったことは、亀井琉球守と云う人物の存在によって明かである。

 亀井琉球守は、亀井滋矩(しげのり)の別名である。亀井伯家所蔵の文書中に、秀吉が天正十二年小牧山の陣のとき、この人に送った手紙があるが、それに筑前守秀吉より、亀井琉球の守とある。

 滋矩はもと出雲尼子氏の部下であったが、毛利氏が、尼子を滅ぼしたとき、秀吉に属して、尼子旧業を復せんとし、しばしば戦功をたて、すでに出雲一国を賜わる内約を得たところが、秀吉中国征伐の最中、信長本能寺の変があり、毛利氏と和議が成立したので、この内約は、ふいとなった。

 そこで、滋矩は、秀吉と話し合った結果日本内地に望むところなし、琉球を賜ろうといった、秀吉はその言を壮とし、腰の団扇(うちわ)を採って表に琉球守殿と書して与えたと、辻善之助博士の著書に見えている。

 琉球は、古来東支那海の形勢の地にあり、日支及び、南方通商の要地であったのだ。もしこの地を敵にゆだねるならば、泉下の亀井滋矩は何というであろうか。

 【同日十三時・大本営発表】

一、沖縄本島周辺の敵は、昨三月三十一日朝、其の一部を以て、神山島並に前島に、本四月一日朝来、其の主力を以て、本島南部地区に上陸を開始せり。

二、我航空部隊及、水上部隊の敵艦船に対し、収めたる戦果中、其の後判明せるもの次の如し、

 撃沈・航空母艦一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦二隻、艦種不詳三隻

 撃破・戦艦若は巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、艦種不詳二隻、輸送船一隻

(リスボン四月一日発同盟)

 グアム来電=沖縄本島上陸作戦に関して、ニミッツ司令部は、一日の公報で次のとおり発表した。

一、陸軍第二十四兵団及び、海兵隊第三水陸両様部隊を主力とする、新編第十五軍は、四月一日朝(東京時間)琉球列島、沖縄本島西海岸に侵攻した。本上陸は、太平洋で最大の水陸両様作戦である。

二、作戦の全般的戦術指揮官は、米、第五艦隊司令長官スプルアンス、水陸両様作戦の指揮官は、太平洋艦隊水陸両様部隊司令官、海軍中将ターナーであり、第十軍の司令官は陸軍中将バックナーである。

三、上陸作戦は、第五艦隊の艦砲ならびに、艦上機の掩(えん)護の下に、同艦隊所属の船舶ならびに上陸用舟艇によって行なわれた。

四、沖縄攻撃はまた、海軍中将ローリング麾(き)下、英太平洋艦隊、機動部隊の掩護と支援をうけた、第二十四兵団の指揮官は陸軍少将ジョン・アール・ホッジ。海上隊、第三水陸両様部隊指揮官は、ロイ・エス・ゲイガーである。

五、沖縄本島の攻撃に先立ち三月二十六日より、沖縄本島南端の西方に位する慶良間列島に侵攻が行われ、この準備作戦にあたる水陸両様戦術面は、米海軍少将カイランドが指揮し、上陸部隊は、陸軍少将ブルース麾(き)下第七十七師団である。

六、水陸両様掩護部隊指揮官米海軍少将ブランデイが、慶良間列島侵攻にも参加して、これら諸作戦の全般的責任を有する。艦砲掩護射撃の主力をなす戦闘艦隊は、米海軍少将デヨーの指揮下にある。

七、本攻撃に参加せる米、太平洋艦隊快速空母機動部隊は、海軍中将ミッチャーこれを指揮し、同攻撃を掩護する護送空母部隊の司令官は、海軍少将ダービンである。

八、上陸前より、現在にかけ米太平洋艦隊の戦艦、巡洋艦その他艦艇が、大口径砲による掩護を与えており、米海軍、艦上機隊も地上部隊に緊密な協力を示している。さらに、南太平洋地域および、太平洋水域の海岸基地、航空隊ならびに、第二十航空隊による、戦略的掩護も行なわれている。

沖縄戦・きょうの暦

4月22日

この日以後、米軍は積極的に進出。石兵団第一線の両翼が危険になったので、山兵団と独混四十四旅団を増援することを決定。

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