◇田中手記を資料とする第二大隊の前進つづき―
午後十時ごろ。首里南方二キロの津嘉山部落到着。雨がはげしくなる。中城湾から吹きつける東風が強い。
田中曹長と川島中尉は相談して小休止する。部落にはガジュマル(榕樹・ようじゅ)の林があり、民家もある。田中曹長、川島中尉は気軽に声をかけて民家にはいりこみ、イロリでぬれた軍服をほした。
「あすの朝、三時までには、首里の線へつくぞ」
川島中尉の野太い声。
「あすからは、もう屋根の下にはいることないなあ。露天の陣地、雨降らばぬるるにまかせ太陽がかがやけば、死ぬまでかわきか…」
詩人田中曹長のなげき―
一時間やすみ、中隊ごと人員掌握、本部との連絡をたもち、津嘉山道を北上する。コースは谷間。中城湾方向の死角を進む。
やがて、先行した各中隊長の帰隊を待つため、谷ぞいの畑に散開、対空遮蔽(しゃへい)作業開始。三時(十一日)。兵隊が、自分のからだを敵から完全にかくす穴を掘り終わった。夜来の雨がやむ。ぬれた軍服のまま仮眠する。東の空が明るみはじめ、はださむい。
朝になった。首里市街が目前にある。くもり空だ。情報として、石兵団の各隊は、損害がひどく、一線陣地は後退し、敵中に孤立しているものもあるときく。
歩兵第二十二連隊は、吉田勝連隊長の指揮をはなれ、石兵団の指揮下にはいる。
第二大隊副官川口准尉は、大隊本部の位置を、弁ヶ岳に選定したという。弁ヶ岳は首里の東北にあって、日本軍第三十二軍の直電波探知機部隊がおり、そのゴウを第二大隊が使用するよう了解もえたとのこと。
午前五時半、第二大隊は、石兵団命令により、砲弾のなかを北上した。
ガジュマルの木の下に、旗手が、ふさだけの軍服をかかげていた。そばに吉田連隊長がたち、通過する第二大隊の道産子たちの一人一人を見送っていた。
これが第二大隊の兵隊と吉田勝中佐の最後の別れだった。
前進する第二大隊の兵隊は、担架でどんどん後送されてくる石兵団の兵隊に、胸を痛めた。血にそまり、すでに死んでいるような兵隊、苦しみ、うめく兵隊。―あすは、自分がこうなるのだと思うと、正視することはできなかった。
吉田勝中佐が、この部隊に着任したのは、昭和二十年三月十五日。前部隊長田中幸憲大佐は、朝鮮竜山教導学校長(一説には平壌士官学校長)に転任のあと、台湾軍(第九師団高級副官)から赴任した。
その時のもようを田中手記によって記録する。
小禄海軍飛行場は、二十二連隊第三大隊の陣地内にあった。毎日、敵機の攻撃がある。この状況下に、飛行場にトラックを待機させ、台北から海軍輸送機で着任する吉田中佐を待った。
十五日朝、小雨が降っていた。輸送機、台湾出発の連絡がはいった。低くたれこめた雲の中に爆音をきく。また敵機か?逃げ腰になって上空をうかがう。着陸姿勢の海軍輸送機が頭上をかすめた。トラックで、輸送機を追う。機内から中佐肩章の陸軍将校がおりてきた。
「吉田中佐ですか?二十二連隊長ですか?」
田中曹長が叫んだ。
「オー俺だ。吉田中佐だ」
「連隊長、荷物は?」
「荷物はない。これだ」
吉田中佐は、軍刀と図のうを示した。道産子はフランクだ。格式ばったり、もったいぶりがきらいだ。
それッとばかり、田中曹長以下下士官三人で、吉田部隊長をトラックに引きあげた。
空襲下だ。まごまごしておられない。でこぼこ道を飛ばし、五分で部隊についた。途中、ふりかえると、海軍輸送機が、離陸するのが見えた。
田中曹長は、当時を回想し、「われわれとしては、同じ北海道出身の野人連隊長に、命をあずけ、ともに戦うという血のかよったなつかしさを感じましたが、思えば、あわただしい着任でした。かわいそうであったと思います」と述べている。
吉田部隊長は、さっそく、副官と連隊付き将校をつれ、陣地視察にまわった。
その後、連隊本部の人事を一部改めた。甲副官白石嘉元大尉、乙副官本田昇少尉、連隊付き将校小城正大尉を任命した。
新設中隊の第三中隊(長・川島中尉)や第一機関銃中隊(長・小関中尉)は、各中隊から転属してきた兵隊で、それぞれの分隊を編成していた。吉田連隊長は、混成しろ、と命じた。セクト意識をきらうのも道産子の性格のようだ。
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