039花と兵隊 “ああ白ユリだ” 夜風にのりにおう香

 小禄と糸満の中間、保栄茂(びん)部落に駐とんしていた山三四八〇部隊第三大隊(長・作間正助少佐)の行動を、和田勢三軍曹(苫小牧市役所保険課勤務)の手記によってつづる。

 四月四日、五キロ南の八重瀬岳に陣地がえを命ぜられ部隊は、北上する避難民の列をわけて南下した。

 月明りの下を、焼け残った部落を通過。砲弾がさく裂する。花火のようだ。つづいて、また一発…。十一時ごろ、山かげに一時停止した。見上げれば、ダラダラ坂。

 坂を十分ほどのぼる。装具が重い。頂上の平坦地にでた。夜空のもと、視界が開ける。

 先発の伊藤兵長が迎えに出ていた。岡本軍曹、小林伍長の顔も見える。富盛(ともり)部落が眼下にある。家々は焼け、人影はない。

 丘の中腹に沖縄人の墓がある。厚いコンクリート造りの墓。それが陣地だ。大塚上等兵が「墓の中に、一週間前ほどまえに死んだという女のくさった死体がはいっていたので、引っぱり出して、前方の畑にうめましたが、いまでも、あのくされたにおいが鼻についています」

 という。私(和田)は作戦上やむをえないと思う。

 私(和田)のごうには、伊藤兵長、島田、伊藤上等兵、成田、三浦、児玉一等兵がいた。

 銃眼からのぞくと、水平線にならぶ米艦隊の明かりと、奥武島(おうむとう)が見え、花のにおいが、夜風とともにただよってくる。

 四月五日、海上の米艦隊が砲撃を開始、陣地付近に至近弾がさく烈する。昨夜、いいにおいをはなっていたのは白ユリだ。ごうのあたり一面、清らかに、はなやかに咲き乱れている。花と兵隊—私(和田)は、胸いっぱい白ユリの香を吸い込んだ。

 海上では、敵の戦艦級の軍艦が、北へ南へジグザグ航行を続けながら砲撃する。グラマンの爆撃―六日は砲撃と爆撃でくれた。七日、八日、九日と、同じ日がつづく。

 四月十日、米軍の上陸用舟艇が、沖の方から波打ちぎわ二百メートルほどのところまでやってきて、クルッと方向を変え、沖へ戻ってゆく。何回も、これをくりかえす。

「敵は湊川付近海岸に上陸の公算あり。これを阻止すべし」との師団命令で、部隊は、びん部落から、ここへ陣地移動したのだ。押し寄せるたびに緊張する。

 私(和田)は、連隊本部の連絡係下士官勤務を、指揮班長能登健三郎中尉(札幌)から命ぜられた。連隊本部は、八重瀬岳の頂上、大きな自然鍾乳洞内にある。内部は広く、居室が階段式につくられている。連隊長・西沢勇雄大佐が、日焼けした顔で地図らしいものを見ていた。

 そばで、通信手の田山上等兵、牧野一等兵が、大隊の通信連絡に専念している。第二大隊の田岡作太郎伍長(虻田町月浦十七で酪農業経営)の声も聞こえる。

 ごうの入り口に岩があり、岩の上から機関銃でさかんに敵機を撃っている。小気味のいい音だ。

 このとき、恩賜のタバコを受領にきた第十隊の兵隊(名前不明)が直撃弾をうけ、赤黒く血肉が飛び散った。毛のついた頭の皮が、まるまって道路わきに飛びはねる。たちまち、金バエがたかり、黒いかたまりに変わった。

 四月十五日、航空無線要員として、他部隊の兵四人が配属になり、私(和田)は小川候補生と任務を交代、白ユリの咲く陣地へ帰ることができた。

 一方、勢理客、泡瀬の戦線は、次第に後退、石兵団は、戦死者多数を出しながら、石領、志和津の線で戦闘中—という情報がはいった。さらに情報として、首里、那覇は、日に日に危険にひんしてきた―という。

 これらの情報をはじめ、いままでの米軍の進攻状況を総合してみると、どうも、米軍は、湊川地区から上陸するとは思えない。敵は、わが山兵団を、一時、島尻地区に釘づけにするけん制作戦をとっているらしい―

 日本軍の上層部が、そう判断をくだしたのは、戦局が大分進行してからである。そして、山三四八◯部隊第二大隊が、ふたたび、保栄茂(びん)部落へ引きあげたのは、四月二十日の夜だった。(以下、和田手記による第二大隊の人名簿を次回四十回に掲載する)

 八重瀬岳の頂上は、いま米軍の基地になっている。中腹にごうがあり、奥の方から冷たい風が吹いてくる。この横穴をつたわって行けば、山頂に出られるようだ。内部は、遺骨遺品が散乱していた。相当強度の火炎放射を浴びたらしく、岩はだは焼けただれ、ガラスびんは、アメのようにまがっていた。中途まで進んだが、だんだん死の世界へ歩いて行くような気持ちになったので、引きかえした。

沖縄戦・きょうの暦

5月10日

米軍、舟艇六十隻で安里川渡河、前田南方高地に進出。石兵団は、前田仲間高地から退却。

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