この戦記は、はるか南海の島に果てた勇者のための鎮魂歌である。本道出身一万有余の魂にささげる永遠の記録である。したがって反響は大きく、読者、遺族からの手紙が記者の机上に山積している。そのなかから三回にわたって〝涙の声〟をお伝えしよう。
幌別郡登別〇〇 岩坂ミサヲさんの手紙。
突然、こんなおたより、ご多忙中、申し訳ございません。なぜか、わたくし自身、じっとしておられない悲しさ―。悪夢を見ているように胸をしめつけられて、どうしても、だれかにお話してみたく、つい、ペンをとってしまいました。
何カ月間も見なかったお写真を出してながめているうちに、わたくしが、こうして生まれて現在の生活に安心しておられるのが、申し訳ないようで、たまらなくなってきました。
戦時中、海陸の兵士のかたがたとうつしたお写真の一枚、一枚、この方も、あの方も、ご両親や妻子のそばから離れ、みなさんが、戦争という命をかけての仕事にでてゆかれ、いまは、どこの野山か、それとも海のはてか・・・。訪れようもない遠いところへ消えて行ってしまわれました。
残された家族の方の悲しみも知らず、かえらぬ眠りについておられる、この一人一人のお顔―自分のつとめ、責任、生きて帰るのぞみがないことを知りながら、そのお心をかくすというより、あきらめ切って、静かなえがおを浮かべておられる。生まれたままの無心な、赤子のようなえがおなのです。
このあきらめ切ったお姿をながめていると、胸苦しい、たまらない気持ちになるのです。若桜の歌をうたいながら忠霊となられた、その時のその人の思いを想像すると、ほんとうに、なんともいいあらわすことのできない気持ちになって、ただただ、泣けて泣けて、しようがないのです。(以下省略)
苫小牧市〇〇、木戸喜八さん(父)の手紙。
このたびは、北海タイムス紙上に沖縄戦記おしらせくださいまして、まことにありがとうございます。忘れることのできませぬ戦場の思いを、手にとるように見せていただき、実にうれしく、戦場に倒れし兵士一同は浮かばれます。さまざまに日々、拝見させていただいております。厚くお礼申しあげます。記録になるものもございませんが、沖縄より、たまにたよりがありました。ハガキ四、五枚手持ちしており、忘れ形見としてございます。アルバムお作りの時記入くださいますことならば、きっと地下で兼一も喜ぶことと存じます。(以下略)
厚岸郡浜中町〇〇 熊谷晃さん(知人)の手紙。
拝啓、貴紙上四月一日よりの七師団戦記「あゝ沖縄」拝読、切り取って保存することに致し毎日が待ち遠しく、繰り返し読ませていただいております。(略)
夕張市〇〇、加藤セツさん(妻)の手紙。
このたび、北海タイムス社の戦記「あゝ沖縄」を毎日拝読して、なくなった主人のご苦労がしのばれ、胸いっぱいになって新たな涙にくれております。主人は本籍、夕張市〇〇 陸軍曹長原正治、山三四八三部隊佐藤隊(以下略)
小樽市〇〇 小沢キツエさん(妻)の手紙。
前略、貴紙夕刊「あゝ沖縄」を拝読させていただいておりますが、感無量でございます。戦没者のアルバムを作成なさいますとのこと、写真を同封します。
球部隊は内地の部隊なのでしようか。当時いろいろ問い合わせてみましたが、全然消息がわかりませんでした。球第一六一六部隊(は)陸軍大尉小沢清一の遺族(略)
札幌市〇〇 工藤キノさん(母)の手紙。
七師団戦記「あゝ沖縄」を毎日拝見させていただき、いまさらながら当時の沖縄をしのび、涙をあらたにいたしております。
また、このたびは沖縄戦没者アルバムを作成してくださるとのことですが、なかなか大変なことと感謝いたしております。子息故進も、皆様方のなかにくわえていただければさいわいと思い、左記のとおり書きましたから、よろしくお願い致します。なお写真は、中尉のが見あたりませんので、これを同封いたします。
苫前郡初山別村〇〇 岩垣秀連さん(兄)の手紙。
(前略)小生の弟郁治も七師団に入営後、沖縄にて一回の通信が最後でした。現地では、記事以上の悲惨なことと思います。弟も若くしてお国のために散りました。顔写真はありませんので、この写真を送ります。(略)(いずれも原文のまま)
沖縄戦・きょうの暦
5月27日
米軍、中飛行場を修理して、再び使用。菊水八号作戦(六十機)米艦沈没一、損傷七。
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