135生き残った特攻隊員 軍人の最期に悔い 今や英霊に深く謝罪

 元海上挺進第二十六戦隊第二中隊付佐々野正憲少尉(長崎県南松浦郡福江町〇〇)から森定博さん(上川郡東旭川村〇〇)にあてた昭和二十一年六月二十一日発信の手紙から「海の特攻隊」の動向をさぐってみよう。一、昭和十九年十一月一日、足立睦夫大尉を隊長とし、将校十五人、下士官九十人をもって海上挺進第二十六戦隊―通称号球一九七六部隊、別名海上特攻白竜隊を編成。森定伍長は、田辺中隊(第二中隊)佐々野小隊に配属になった。

一、同年十一月二十日、宇品港出航。十二月十四日、沖縄上陸。空襲にも被害なく戦闘準備をすすめた。

一、二十年三月二十三日から三十一日にわたり、空襲と艦砲射撃をうける。

一、四月一日、米軍は嘉手納に上陸。米軍は上陸海岸に船泊地を構成した。当時森定伍長は糸満の南方約三キロの西海岸・名城(なぐすく)部落の中隊の駐とん地で作戦準備に励んでいた。

一、四月九日、軍司令官から、わが戦隊に出撃命令が発令になり、夜なか、戦隊全員が出撃した。わが中隊は、名城海岸から糸満―小禄―那覇―嘉手納の米軍船泊地を攻撃した。

 米軍は言語に絶する水面射撃で、わが突入をくいとめた。このため、特攻艇の大部分を海上で破壊され、森定伍長はじめ隊員は、泳いで帰隊した。

一、五月一日、戦況不利な地上部隊支援のため、戦隊は、首里北方約六キロの第一線・阿波茶(あわちや)に到着、地上戦闘に参加した。

森定伍長は、中隊長田辺中尉小生ら十四、五人といっしょに独立第二十三大隊に配属になった。以来、軍の最後尾となって沢祗―首里―津嘉山―東風平―真壁とさがった。沢祇では六十四旅団司令部付、首里では第二十一大陸付であった。

一、六月二十日以降、軍の指揮系統が乱れた。三、四人で組をつくり、遊撃戦法にでるべし―と命令があり、小生は、森定伍長をふくむ下士官三人と兵二人の六人で、米須海岸を根拠地とし、夜間切り込みを決行していた。

米軍の掃蕩戦は日を追って激しくなり、七月中旬以降は生存者はごくわずかになった。七月十一日、仲間の兵一人が米軍に射殺された。森定伍長は、彼のかたきをうつ―という。つぎの日、小生も加わって五人で夜間切り込みに出発した。うまく米軍基地に接近し、まさに、突入しようとした瞬間、爆発音がとどろいた。

二手に別れた森定伍長ら三人の組が、地雷にふれたのである。

部隊編成以来、模範的な下士官であった森定伍長の惜しみてあまりある最期であった。伍長のかざりけのない清純なる人柄は、小生の誇りの一つであり、中隊長以下全員に尊敬され、親しまれておりました。いまはなき森定伍長をなつかしみ、その英霊にたいし、心からの祈りをささげます。

 わが戦隊の生存者は、下士官九十人中十一人、将校十五人中ただ一人。以上十二人でありますが、軍人として最後をまっとうし得なかった小生は、英霊にたいし、ご遺族にたいし、誠にあいすまなく、深くおわび申しあげる次第であります。

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