第六十三旅団の参謀は
「夜襲が成功しても、あすの朝になって、敵の猛攻をうければ全滅する。それよりも、薄暮攻撃をして、敵陣地をうばい、夜になったら陣地を補強し、左右両翼部隊、後方の砲兵と緊密な連携をとって、火網を形成することを命ずる」
従来、夜襲をひたすら研究してきた平野大隊にとっては、不慣れな戦法であるが、いままでの米軍の戦法では、薄暮以降は攻撃、反撃をしていない。成功の可能性もあった。平野大隊長は決意した。大隊の各隊指揮班は、午前八時ごろから棚原稜線(台地)上で左右一キロの距離以内の敵の追撃砲、特火点、その他の火網構成を調べはじめた。同時に、台地上に点在する球兵団各砲兵観測所から資料を集め、それに基づいて、あす(十三日)以後の支援援護射撃地点を判定、砲撃を要請した。
平野大隊の各中、小隊長は、自分の隊の攻撃目標付近の敵情を真剣に調べはじめた。気象情報によると、きょう(十二日)は午後からくもり、または小雨とのこと。ますます、敵の反撃はないとの確信を深めた。
午後二時、平野大隊は、攻撃準備地へむかい前進をはじめた。前進順序は、大隊本部、各隊命令受領者、有線、無線通信、軍医以下衛生部員、主力機関銃が先頭で第五中隊(長・佐野壮一中尉)第六中隊(長・大浦真治中尉)第七中隊(長・不明)がつづいた。
平野大隊長は副官川口准尉をつれ、敵中に孤立している石兵団守備部隊へ先行した。任務遂行のため、三十分でも十メートルでも部隊より先に進んで、敵情を知ろうとしていたのである。
大隊長は、大隊本部より、はるか前方を飛びまわっている。その居所をさがし、百人近い将兵を、激しい敵弾から守りながら誘導する田中曹長の苦労は大変だった。
棚原台地の切り通しの道は、クボ地をまがりくねり、北の方は米軍陣地につながっている。田中曹長らの先行部隊が通過しかかると、敵の野砲、迫撃砲、機関銃などが一斉に集中した。ねらいは正確。しかも時機をつかんでいる。米軍は、事前にここを測定していたようである。
先頭にいた田中曹長は、うしろを振りかえるゆとりもなく、夢中で前へ走り、死角と判断したクボ地に飛び込んだ。
助かった―と思い、うしろを振りかえった。あとに続く指揮班員は、全員、あちこちに伏せだれ一人、前進する気配はない。
この火網の中にまごまごしていれば全滅だ。田中曹長は、鬼のようになって走り戻った。
「あのクボ地まで行けッ!動かない者は射殺するぞッ」
怒鳴りつけ、拳銃を発射した。みんなはクボ地へ飛び込んだ。
曹長は、米軍の砲撃をうかがった。正面からは迫撃砲、右前方に機関銃、左手は、小高い馬の背のような丘、四百メートルぐらいつづいている。この丘の稜線から右斜面は、全部、右の方の砲火にさらされている。
田中曹長は、竹浜宝一軍曹に指揮班の掌握を命じ、伝令二人をつれて、左手の丘のひくいところを登り、左斜面へ出た。
稜線の左斜面は、右斜面や、前進してきたクボ地にくらべ、敵の砲火が少ない、我如古方向の友軍陣地の銃声と敵の小型砲弾(戦車砲らしい)のサク裂音は聞こえるが、前進しやすそうだ。
敵はたぶん、こちらの進路を察知するだろう。敵にわかっても敵重火器の陣地移動や砲兵に連絡する間げき(隙)をぬい、一挙に、あと三百メートル前進しよう―田中曹長は決心した。
本部指揮班の先頭に田中曹長が立った。最後尾は本田曹長(雨竜出身)・戦死者や負傷者の確認をたのむ。
いま、指揮班は半数が戦死しても、陣地占領の任務を遂行しなければならぬ。めざす陣地は台地の北端、もとの石兵団連隊砲陣地。この敵弾の中だ。あそこまで行くうちに犠牲者がでるだろう。それを覚悟して、一気に二百メートルほど走った。あと百メートルほど走った。あと百メートル。敵砲弾が激しさをます。身近にさく裂音。血まみれになって倒れる兵隊。つづく兵隊が、おそれてふせる。これで、前のクボ地と同じだ。
「とまるなッ、走れッ、走れッ」
一人でも多く、今夜の戦闘に参加させなければならぬ。田中曹長は絶叫した。
「とまるなッ、とまれば、タマにあたる。走れッ、走れッ、走れば、助かるんだッ」
沖縄戦・きょうの暦
5月5日
日本軍の総攻撃失敗。山兵団の兵力半減。砲兵は弾薬不足し戦力の低下いちぢるしい。
5月6日
首里、石嶺、松川で戦闘。
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