「おとうさん、なぜ泣いているの?」田中松太郎さん(札幌郡広島村市街)は、この手記をつづりながら涙を流していて、お嬢さんから不審そうにたずねられたそうだ。私もそうだが、沖縄戦を体験しなかった読者にとっては、この戦記は、田中さんのお嬢さん同様、真意のくみとりづらいアンチ・ロマン(反小説といわれている小説)みたいなものであろう。体験しなかった人には、わからない―函館の細田久雄さんも、そういっている。われわれがいま呼吸をし、生きつづけているこの現実と、十九年前のちょうどいまごろ、南の島・沖縄にくりひろげられた現実とは、あまりにも、へだたりがありすぎるのだ。つぎの田中手記の一節が、それを物語っている。
敵戦車が、火炎放射で、地面をくまなく焼き払っても、われわれは、肉攻ごう(タコツボ状に掘った土中のあな)の中で、被甲(ゴム製の防毒マスクで、有毒性の空気を清浄化する装置がついている)をかぶり、雨外とう(バーバリーのようなもの)をきて、そのうえから、全身を泥水でビショビショにぬらした毛布でつつみじっとしている。
火炎放射の油が燃え、地面に酸素がなくなっても、頭からかぶった毛布内の空気で、三分間くらいは生きていられる。
とくに、風のある時はまきちらかされた油の燃えるのも早く一分間ほどで燃えきってしまう。
そのうちに、別の穴にはいっている兵隊が、発煙筒を点火して投げる。彼は、その煙のなかを、敵戦車に突進してゆき戦車のラジエターの部分に、十キロの急造爆雷に手りゅう弾一個をつけてのせる。場合によっては、戦車のキャタピラの前方へ投げることもある。
戦車とはがん強なメクラで、とそのうえツンボだ。勇気とタイミング、さらに戦友同士の連絡動作がうまくゆけば、一兵も失わずに破壊することができる。
戦車との戦いに日本軍は毎日陣地の組織を変え、敵の意表をつくため、あらゆるものを利用した。焼け残った民家の柱や、砲弾で折れた立ち木を寄せ集めて戦車の障害物を作り、破壊されて放置してある敵戦車のなかにも、日本兵がひそんで、近づく敵戦車を攻撃した。
十三日夜、石兵団の残存兵は棚原部落に集結のため後退していった。陣地の人員は半減した。
各中隊陣地では炊事ができないので、糧マツ係の兵隊は、敵弾の下を棚原付近までさがり、そこで米を受領、飯ごうでたき、ミソ、梅ぼしなどと一緒に第一線まで運ぶ。
一日の食事は、早くても夜中、係りの兵が負傷し、朝方になることが、しばしばだった。
敵の攻撃が開始されるころ、飯ごうの中ぶたに一つの飯をたべる。水は、地面にたまった雨水だが、それには、戦死体の死臭と、火薬のにおいがつき、油が黒く浮いている。硝(しょう)煙のにがさをこらえ、のどへ流し込むと、口のなかにザラザラとサンゴ礁の砂が残った。
どうせ、あと数日の命だ、腹を満たし、かわきをいやすだけだ―と、夜間、陣地付近の畑に出て、わずかに残っているイモを掘り、なまのままかじった。
十五日夜、平野大隊の位置に若い工兵少尉以下五人の切り込み要員が、司令部から派遣されてきた。彼らは、友軍に脅威を与えている敵はなにか?とたずねた。指揮班員たちが、敵の砲兵陣地と、敵戦車が夜間集結する場所を教えていたが
―彼らに成果を期待することは無理だ―
田中曹長は、米軍のレーダーや夜間警戒法の完全さを考え、五人の切り込み隊員に同情した。
「この切り込み隊員はじめ、多くの戦友たちが、棚原部落付近の戦闘で死んでいった。せめて、彼らに、今生最後の飯一ぱい一口の水なりと与えてやりたかった」
当時を思い出し、泣けて泣けて、あとは書けない―と今回の田中手記は、ここで終わっている。
棚原部落は、二回おとずれた。二度目のとき、村長の城間勇吉さんに案内され、入り口が土くずれでふさがり、中に遺骨がたくさんはいっているという病院ごうの前まで行った。
草や木の茂みにうもれたままだ。掘り出して、葬ってあげたい気持ちになった。土の中に眠るのが、人間の最後とはいえ、彼らだけが、いまなお、戦闘しているような気がしてならない。
山行かば、草むすかばね、海行かば、みづくかばね…風雨と虫の音が、彼らの心をうたいつづけていた。
城間さん宅でジャジャメンをごちそうになり、真ッ暗な棚原部落を、バスの停留所まで歩きながら〈さようなら〉心の中で叫んだ。〈もう、おれはこれないだろう。だが、北海道へ帰ってきたら、きみたちのことを、みんなに知らせ、一年に一人でも、二人でも、ここを訪れるようにしてあげたいと思うよ〉ヤミが静かだった。
沖縄戦・きょうの暦
5月8日
戦況にさしたる推移なし
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