「沖縄戦・米軍の記録」から―
沖縄駐とんの日本軍の兵器は歩兵勢力にくらべ対戦車砲、曲射砲、迫撃砲、高射砲、機関砲、機関銃が多いのが特徴だった。
機関砲、機関銃、迫撃砲などは、ふつうの部隊編成より、かなり余分にもっていた。これはおそらく、フィリッピンその他の戦線へ輸送する予定だったものが、輸送船不足や戦争の進路変更などのため、積み出すことができず蓄積されたものであろう。
その他にも、日本軍は弾薬、地雷、手りゅう弾、小型爆雷などを多量に保有していた。
沖縄の日本軍砲兵の装備は、その量において、大きさにおいて、また種類において、太平洋戦争のどの戦線よりも、はるかにすぐれたものであった。海軍の沿岸砲はじめ、七十ミリ曲射砲あるいはそれ以上の大砲もふくめ、日本軍は全砲二百八十七門を集結させて沖縄防衛にあたっていた。
全砲門のうち六十九門が中型の砲で、百五十ミリ曲射砲=五十二門、百五十ミリ砲=十二門をふくんでいた。
小型砲としては七十ミリ、七十五ミリの曲射砲や大砲などが百七十二門。さらに、七十五ミリ高射砲、高角砲七十二門、二十ミリカノン五十四門が、地上戦闘用として使用されることになっていた。
日本軍の臼(きゅう)砲部隊の主力は、八十一ミリ砲九十八門を装備した砲兵二個大隊であった。そのほかに、これまで類例をみないほど多数の三百二十ミリ臼砲を備えていた。
日本の陸軍で唯一をほこる第一砲兵連隊は、この三百二十ミリ臼砲を二十四門も持っていた。ふつうの基準内の地上戦闘部隊でも、五十ミリ迫撃砲千百門を装備していた。
米戦車隊に対する方法としては、日本軍は、ほとんど、想像以上に多数の対戦車砲、とくに四十七ミリ砲にたよっていた。
日本軍の独立対戦車隊は、全部で四十七ミリ砲五十二門をもっていたが、このほかに、三十七ミリの対戦車砲二十七門が、陸軍の各部隊に配置された。しかしながら、戦車隊それ自体としては中型戦車十四台、軽戦車十三台で、その兵器としては、一番大きいもので、中型戦車装備の五十七ミリ砲であった。
日本軍は、大いに機関銃にたよっていた。数も、おどろくべきほど多く、弾薬も実に豊富だった。部隊は全部で重機三百三十三丁、軽機千二百八丁を保有し、戦闘中には、さらにこわれた戦車や飛行機からはずしたので、機関銃の数はふえ、第六二師団(石兵団)だけでも、第三十二軍の機関銃のほとんど半分近くをもち、最も強力な部隊であった。
これらの火力で前進をはばまれていた米軍は、四月十九日付けで、つぎのニミッツ司令部発表を行なった。
「沖縄南部の要塞(さい)地に迫った米軍は、ほとんど十三日間クギづけにされていたが、十九日には早朝から米第二十四軍団の第七師団、第二十七師団、第九十六師団の兵力を持って総攻撃を開始した。
一、第二十四軍団は四月十九日(東経標準時)沖縄南部防衛陣地に対し、大規模兵力により攻勢をとった。
同日早朝より米陸軍ならびに海兵隊の砲兵陣地は、米太平洋艦隊の戦艦、巡洋艦その他艦艇とともに水陸両用部隊の援護砲撃としては、みぞう(未曾有)ともいうべき砲撃を日本軍陣地に集中した。
この砲火ならびに艦載機大編隊の援護のもとに、米陸軍第七、第二十七、第九十六各歩兵師団の兵士は、午前六時から八時までのあいだに攻撃を開始し正午までには左右両翼において、四百メートルないし七百メートル進出、牧港(まちなと)に突入した。
一、日本軍は野砲、臼(きゅう)砲ならびに小火器をもってがん強に抵抗した」
牧港から那覇までは約六キロ。米軍は牧港を占領後は、すぐ前の伊祖城跡にはいり首里を攻撃するコースをとることが予測された。これで日本軍の左翼防衛線の一角がくずれてしまった。
歩兵第二十二連隊第一大隊(長・鶴谷少佐)は、十三日の夜襲失敗以来、米軍の砲撃、艦砲射撃を浴びながら消極的な持久戦をつづけていたが、十七日西原村幸地部落に後退、第二大隊(平野少佐)は我如古から棚原に後退、第三大隊(長・田川少佐)は仲間部落にいた。第三大隊の第十一中隊(木口中尉)と第六中隊(大浦中尉)は、吉田連隊長の指揮をうけ、第一線の後方、運玉森でタコツボを掘り、個人戦の準備をしていた。連隊本部は、弁ガ岳に位置していた。
沖縄戦・きょうの暦
5月20日
米軍、首里包囲の態勢をとる。
コメント