第四十五回の佐藤留義さんの手記(上から三段目、右から三行目)に「米軍上陸地点を守備する賀谷支隊からは、五分ごとに戦況が伝えられていた」と書かれてある。
この賀谷支隊(石兵団第三五九三部隊独立歩兵第十二大隊)本部にいた鈴木竜一さん(名寄市〇〇電話〇〇)から手記が寄せられているので発表する。
鈴木さんは、昭和二十九年、本社が沖縄に北霊碑を建てた時生き残りとしては最初に渡沖している。
大隊長賀谷与吉大佐について七師会副会長の染谷五郎さん(札幌市〇〇=目下渡欧中)は、次のように語っていた。
賀谷さんは山口県生まれ、広島幼年学校卒。陸士第三十三期生。剣道の名人で未亡人は、もとの旭川市助役御手洗氏の令嬢。その弟に陸士出身の少佐がいたはず。遺家族は、旭川におられると思う。
四月一日ごろ―賀谷支隊は、本部を諸見里、第四、第五中隊は越来(ごえく)胡座(こざ)方面、第一、第三中隊は桃原(とうはら)謝苅(じゃかり)方面、第二中隊だけは、本部から十キロほど北の残波岬に近い座喜味(ざきみ)方面で、それぞれ陣地を構えていた。
諸見里(本部陣地)からは西へ四キロ、桃原(一、三中隊陣地)からは二キロで、北谷海岸の海が見える。米艦隊が沖合いに停泊し、舟艇が、いまにも上陸しそうな勢いを示して、海岸近くまで接近してくる。が、接岸はしないで反転し、引きあげてゆく。米軍はこれを、四月一日の数日前から、何度もくりかえしていた。
だから、四月一日午前六時ごろ、いつもの倍くらいの舟艇、輸送艦、軍艦が間近に見えたが私(鈴木)は数が多いなと思ったくらいで、めずらしいとは思わなかった。
見ていると、全舟艇が陸地に向かって進んでくる。北の嘉手納方向をめざすもの、まっすぐ北谷海岸に進んでくるものなどさまざまだ。賀谷支隊は、米軍が上陸する水際を攻撃するよう命令されていたので、一発も発射しなかった。
米艦隊の一齊砲撃が始まった。水上偵察機五、六機が、わが陣地上空を飛ぶ。艦載機グラマン数機か、降下しながら機銃掃射を浴びせ、上昇するとき、ロケット弾を発射して飛び去る。
六時半ごろ、賀谷支隊は、無線手を通じ、残波岬方面の海軍砲台に、砲撃開始を命じた。それから間もなく、海軍砲台から「全弾撃ち終わり。これより全員切り込みを行なう」と無電がはいった。その報告を、賀谷大佐は悲壮な顔で聞いていた。
第二中隊が力戦中なのだろう、嘉手納方面から、激しい機銃音が聞こえてくる。すさまじかった米軍の艦砲射撃が、かんまんになった。グラマンの機銃掃射と爆撃は、相変わらず激しい。
上陸した米軍がわが主力陣地に、一齊射撃を開始した。距離一千メートル。米軍は水陸両用戦車は陸あげしたが、まだ重火器は一門も陸あげしていない。
われわれ賀谷支隊本部は、米軍を撃ちやすい位置に移動した。つけねらう水上偵察機が、陣地の上空を金属音をひびかせて旋回すると、間もなく、艦砲弾が陣地に集中した。これをきっかけに、支隊本部は、撃って撃ってうちまくった。
いつしか夜になり、伝令が走りまわる。第一第四中隊長戦死の報が伝わる。第四、第五中隊は、本部の近くに集結した。第二中隊とは、連絡のとりようがない。独自で行動しているようだった。
四月二日も、同じような戦闘が続いた。米軍の前進は、めだつほどではなかった。夜、師団命令で、東海岸の大城部落まで後退した。途中、学校の校庭で人員をしらべた。三百八十余人だった。
三日早朝、泡瀬方面から南下する米軍と、熱田付近で交戦した。一門だけ残った連隊砲を、台地にすえつけ、米軍を砲撃した。米軍の真ん中に二、三発命中。米軍は、散開したまま一歩も前進しない。決して無理な攻撃をしない米軍―そういう感じだ。
わが第十五大隊(賀谷支隊)は、津覇、南上原をとおり、五日、独立歩兵第十一大隊(長・三浦大佐)独立歩兵第十四大隊(長・田村大佐)と第一線を交代した。夜、棚原部落まで後退したとき、第三中隊長飯田大尉が砲弾で戦死した。本部副官飯田中尉(同姓)が同中隊の指揮をとる。
夜中に幸地部落についた。この第二線陣地で再編成し、休養をとるためだった。それぞれ、ごうを割りあてられた。今夜はゆっくり寝れると思っているところへ、兵隊が、四十歳ちかい日本人を連れてきた。山の上で米艦隊に海中電灯で信号を送っていたという。このスパイは、その後どうなったか私(鈴木)は知らない。
沖縄戦・きょうの暦
5月21日
米軍、首里方面では石嶺、大名、末吉、那覇方面では真嘉比、安里を結ぶ線で白兵戦展開。東海岸方面では、運玉森に殺到。シュガー高地を奪取。北谷、嘉手納に増援兵力を上陸させる。
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