052コンサイス 弾薬ならぬ食糧 米軍から失敬、舌つづみ

 四月十五日、山三四七四部隊第二大隊(平野大隊)は、全滅寸前の窮地にあった―

 米軍は正午ごろ、平野大隊の各中隊陣地間を突破した。大隊本部の右後方からは、米戦車四台、歩兵五十人ほどが肉薄してきた。左後方には、二個中隊以上の米歩兵が陣地を占領、戦車を大隊の方にむけ、そのかげで、ごうの構築をはじめた。

 平野少佐は田中松太郎曹長を呼んだ。「指揮班と本部ごうにいる負傷兵で、自分で歩ける者は、本部の衛生兵一人をつけ、日没後、棚原部落にいる石兵団の衛生隊へ後送せよ」

 田中曹長は、決戦準備だな―と、通信紙に命令をメモしながら思った。

「・・・大隊砲は、残弾六発を、本夕、敵が撤収するときに撃ち全弾を、本部後方の米歩兵部隊と戦車が集結し、ごうを構築しているところに撃ち込め。その後、大隊砲を破壊せよ」

 いまや大隊は、前後左右を米軍にとりまかれている。平野少佐としては、軍司令部の命令がどうあろうとも、生存者約五十人で、左後方の米軍に夜襲を決行する覚悟らしい。

 しかし、田中曹長は、まだ一日くらいは、この陣地を確保できると考えた。いくら各中隊が沈黙しているとはいえ、全員が戦死してしまったわけではない。―そう思った。絶望的な状態にあるが、生き抜く立ち場に立った処置をとった。

 負傷者は後送させた。弾薬係には、重テキ弾筒弾薬、手リュウ弾、十キロ急造爆雷などを、できるだけたくさん補充するように命じた。あす(十六日)以後の肉弾戦を予想しての準備である大隊砲は、日没後、司令部の位置までさげ、そこへ弾薬を運ぶように命じた。

 さらに曹長は、寺岡軍曹(第七中隊の命令受領者)につぎの任務を命じた。

「夜間、中隊へ帰って命令を伝達したら、左後方の米軍陣地を偵察してきてくれ。陣地にはトラック二台で集積した荷物が見えるが、あれは、弾薬か糧秣(りょうまつ)か。それとも、あすから使用するつもりの新しい兵器なのかよく調査してきてくれ」

 どんな窮地に追い込まれても戦う意思を捨てない。この根性は―軍人精神ともいっていたが数々の不合理と矛盾、非人間的な生活―軍隊生活は、戦闘時の生活を基本としていた―によって育成され、きたえあげられたものだった。

 むろん、寺岡軍曹も命令どおり行動し、午後十一時ころ、田中曹長の前に宮原兵長を連れて現われた。二人とも、ダンボールの箱を背負ってきたが、それを狭いごう内においた。

「曹長殿、これは弾薬や兵器の重量ではありません。衛生材料かとも思いますが、見てもらおうと思い、一個いただいてきました。見てください」

 目の前に置かれた、えたいの知れぬ箱に、田中曹長は、かすかな恐れを感じた。川口准尉は迷惑そうな声で

「お前たち、やっかいなものを持ち込んだなあ。みんなあぶないぞ。ごうの外へ出ろ」

と、兵隊たちを追い出した。曹長は、自分が命令した、その復命である。逃げることもできずおそる、おそるロウソクの火を箱に近づけた。

 ダンボールに英文が印刷してある「Cレーション」と読めた。なんのことやら、わからない。見てゆくうちに「FOOD」(フード)とある。たべものらしい―と判断した。

 さっそく箱を開いた。ちやんと、一人分ずつ包装された米兵の食糧だ。コーヒーがある。ビスケット、キヤンデー、肉のかんづめ、さらに、むかし札幌のたばこ屋のショーウインドーで、時どき見かけたラクダのついたたばこ「キヤメル」や名前のわからない上等なたばこなどがはいっている。

 不安は、喜びにかわり、平野少佐以下指揮班の将兵でわけて食べた。そのうまいことに、みんな、目をまるくしておどろく。田中曹長はうまさを味わいながら、棚原で捨てたコンサイスを思い出し、残念なことをした―と思った。

 だが、それにしても、あれから五日間、よくぞ生きてきたものだ、と、万感胸に迫る感じだった。

 米軍は、沖縄戦の後方で、一大補給作戦を四月三日以来、昼夜兼行で行なっていた。特攻機台風の妨害をうけながら、上陸地点の渡具知海岸には、一大桟橋(さんばし)を建設し、四月十六日までに五十七万七千トンの物量を陸揚げしていた。さらに、その物資を奥地へ運ぶための道路建設や、巨大な航空燃料貯蔵所の建設にさえとりかかっていた。

沖縄戦・きょうの暦

5月23日

 奥山道郎大尉指揮の義烈空挺隊、北中飛行場に強行着陸し、米軍機、施設を破壊、二十七日まで奪戦して、全員戦死。

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