053馬乗り攻撃 岩にへばりつき ゴウ内に集中攻撃の嵐

 米軍は、陣地予定地に食糧を置いたまま、夕方、後方陣地へ退いて行った。平野大隊の夜襲を警戒しての行動だ。平野大隊は、あす(十六日)陣地を確保できたとしても、十七日以後の弾薬、食糧の補給はむずかしかった。各中隊は、それぞれ陣地補給をする一方、使役兵を出して、寺岡軍曹が発見した米軍食糧を、各自の陣地へ運び込んだ。各中隊が、ここへきたときは、兵隊はそれぞれ百五十人ぐらいいたが、いまでは、各中隊とも三十人ぐらいに減っていた。

 十五日一日の敵の砲弾で、堅い岩の地面が平均三十センチくらいもけずりとられた。あたり一面岩のかけらを敷きつめたようだ。そのあちこちに、砲弾の破片、戦友の血と肉、軍服の布片割れた鉄帽、こわれた兵器が散乱している。

 陣地の山頂は、大きな岩山なので、戦死者を葬る穴は掘れない。その暇もなく、戦死体はハエのむらがるまま、放置されていた。

 米軍は、平野大隊と、棚原部落の間に陣地を構えた。これは大隊のさがる道や補給路を断ち切り、大隊を孤立させて全滅をはかる作戦であることは明白だった。

 あすは、最後の日になるかもしれない―食糧運びの者をのぞき、平野大隊長以下全員で、陣地の補修に当たった。

 ごうの入り口には、天井のはりから毛布をノレンのようにぶらさげた。幕を張って、手りゆ

う弾投入や火炎放射を防ぐためだ。陣地ごうの開口部は、あちこちに数カ所あったが、山頂の監視口と、下の坑道入り口の二カ所以外は、全部ふさいだ。敵砲弾が飛び込まぬよう厚さ一、二メートルほども、頭大からこぶし大の岩石を積みあげたのである。

 田中曹長は、こう推定した。「きのうまでは、米軍は、前方と左右両方面にしかいなかった。いまや、後方・棚原方面にも、敵戦車が現われ、歩兵が陣地構築をはじめたのだから、あすは大隊本部陣地も、敵歩兵の馬乗り攻撃をうけるだろう。この減った人員器材で、陣地を確保するのは大変だ。全滅するかもしれない。しかし、戦えるだけは戦おう」

 田中曹長と第二機関銃中隊の生存者十人は、山頂の監視口、本田曹長らは、下の坑道口にそれぞれ戦闘隊形をとり、十六日を迎えた。

 米戦車が、きのうと同じコースを進んでくる。だが、急造爆雷は、全部使い果たし、肉薄攻撃の兵隊もいない。見守っているだけだ。

 米軍は、田中曹長の推定どおり陣地に馬乗り攻撃をかけた。陣地の上、出入り口に米兵がへばりつき、ごう内を手りゆう弾、火炎放射器、機関銃で攻撃する(この攻撃を、日本軍は米軍の馬乗り攻撃と呼び、今後も戦記中にたびたび出てくるのでご記憶ください)

 平野大隊長以下将兵は、米軍のすきをうかがい、ピストルで撃つのが勢いっぱいの抵抗。山頂の監視口付近には、だんだん彼我の死体が、ふえていった。

 監視口のたて抗は、直径が一メートルくらい。一人が、やっと頭を出せる大きさ。米軍は、そのまわりに、戦車をずらりとならべ機銃の銃口を監視口に集中している。二十人ぐらいの米兵が、八方からはって肉薄してくる。

 日本側は、穴から一人だけ頭を出し、一気に手りゆう弾を五発から十発くらい投げ、すぐ、引っ込む。引っ込むというよりたいていは敵の機銃にやられ、たて抗の上から井戸のような底へ、血に染まって落下した。つぎつぎと戦死し、もう、交代の人員もいなくなった。立て抗の岩が、だんだん血で赤く染まってゆく。

 本田曹長は、下の入り口付近にがんばり、毛布のノレンに当たって落ちる敵の手りゆう弾をひろっては投げかえしていた。入り口から五十メートルくらい先に米軍の戦車がおり、歩兵の攻撃を助けている。戦車の機銃口が火をふいた。本田曹長がひざをつき、横に倒れた。

 たちまち敵の歩兵は、入り口付近に走り寄り、あちこちにへばりついた。入り口からの攻撃が激しくなった。

 田中曹長は、山頂の監視口で発煙筒を燃やした。煙にかくれごうから山頂に出て、彼我の戦死体を積みかさねた。西南方教十メートルに敵戦車がいる。その機銃弾を防ぐとりでを、戦死体を積んでこしらえた。つぎに、手りゆう弾を箱ごとひきずり、十メートルほど東へ移動した。そこから、ごうの入り口付近めがけ、一気に十発ほど投げ込んだ。

 爆発音が、連続的にひびく。これで、入り口付近の敵を全滅させたと思った。あたりを見回すと、陣地は、完全に戦車で包囲されている。早く、たて抗にもどらねば―と思ったとき、戦車機銃弾が、田中曹長のまわりに集中した。砲弾と迫撃砲弾が飛来しないのは、あたりに米兵がたくさんいるためだった。曹長は、顔と左腕に負傷しながらも、はって監視口の入り口に戻った。

沖縄戦・きょうの暦

5月24日  米軍、首里雨乞森に侵入。正午、那覇与儀に突入。菊水七号作戦(特攻九十八機)で米軍艦沈没、損傷九。

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