059志村大隊出動 信頼する避難民 山兵団に手を合わす

 四月二十日。「命令、山三五七五、志村大隊は、今夕八時、首里方面へ向かって転進すべし」

 島尻郡山城部落に足止めされていた歩兵第三十二連隊第二大隊(志村常夫大尉)に出動命令がくだった。第二歩兵砲小隊の伝令撫養富司兵長(深川市〇〇)は、小隊長日原正人中尉のもとへ走った。

 数日前から、西原村方面に、米歩兵、戦車部隊が進入、石兵団が苦戦している―との情報がはいり、第一線出動が近いぞとうわさしているところであった。

「よしわかった。いよいよ、戦う時がきたな。撫養、がんばれよ。ご苦労であった」

 日原小隊長は撫養兵長をはげまし、小隊に出撃準備を命じた。走る者、叫ぶ者、兵も下士官も殺気立って大わらわ。そこへ娘が一人飛び込んできた。米須小学校の大田先生だ。

 先生は、日原小隊長の前へ走り寄った。敵機の空襲で両親を失い、家を焼かれた。行くところがないから、部隊が第一線へ出動するなら、自分を看護婦として前線へ連れていってくださいという。小隊長は、前線へ女を連れてゆくことはできないとことわっているが、大田先生は泣いてたのんでいる。小隊長は当惑顔。

 小隊には、石油の引火でヤケドをした四人の兵隊を残留させることになっていた。困りはてた小隊長は、その看護を大田先生に引きうけてもらった。事の成りゆきを心配していた兵隊たちも、これで安心したらしい。

「第一線の敵をやっつけ、すぐ、戻ってくる。ちょっと待っていてください」と泣き顔の大田先生や残留者をなぐさめていた。

 夕暮れとともに、志村大隊は集結を始めた。本部はじめ第五中隊、第七中隊、機関銃隊など、続々集まってくる。みんな北海道出身者だ。さあ、やるぞと張り切っている。

 午後八時、集結を終え、大隊本部から出発を開始した。撫養兵長は伝令として本部に同行した。住みなれた山城陣地をあとに、部隊は、黙々と前進する。艦砲弾が、頭上をうなって続けざまに飛ぶ。

 米須部落をすぎ、真壁村につく。時どき、敵の照明弾があがる。あたりが明るくなり、砲弾が身近でサク裂する。米軍は、志村大隊の前進を気づいたようだ。砲弾の破片が、アブのようなうなりをたてて飛ぶ。避難民数百人が一団となってやってきた。老人たちが立ち止まった。前進する部隊に手をあわせ、しきりにおがんでいる。

「山部隊の兵隊さんが、第一線へ行ってくれると、この戦争は勝てる」

 といっている。山兵団はこんなに信頼されているのか―みんなは、ますます張り切った。

 第一目的地、山川部落に到着。負傷兵が首里方面から、どんどん後送されてくる。本部小銃隊、機関銃中隊は、部落前方のごうにはいり、歩兵砲小隊は道路の掘り割り付近のごうにはいった。その時、一人の沖縄出身兵に砲弾が命中、一物も残さず消えた。

 撫養伝令は、本部と小隊間の連絡についた。照明弾が、ひっきりなしにあがる。敵機が銃撃を浴びせる。砲弾が、身辺でサク裂し続ける。山川部落の三差路には、のべつまくなしに砲弾が落下、死体が散乱している。(―そこは、だれ言うとなく、魔の三差路と名付けられていた)

 四月二十五日午前十時ころ、敵機が数機とんできた。山兵団の転進を知り、攻撃にきたらしい。大隊本部のごうの上に、十数発の爆弾が落ちた。天井から土砂が落ちる。ごう内部がグラグラゆれる。坑木がはずれて飛び出す。まるで大地震だ。第二歩兵砲小隊の戦友たちは、大丈夫だろうか。早く日が暮れればいい―と撫養兵長は、心に念じた。

 四月二十七日。命令「志村部隊は、首里北方、前田部落の敵を攻撃すべし」

 第二歩兵砲小隊は待機することになった。

 撫養兵長だけは、部隊とともに首里へ進む。首里に近づくにつれ、戦死体がふえる。収容する暇がないらしい。数えきれぬほどの戦死体だ。なんともいいようのない、すごいにおいがする。撫養兵長は、息をとめた。ああ、これが戦場のにおいだ―と思った。悲しい、暗い気持ちだ。

 どんどん負傷兵が運ばれてくる。志村大隊の兵隊たちは「いまに仕返しをしてやるぞ」と、負傷兵にいい、同時に自分をも励ましているようだった。

 首里市内にはいる。路上には手足がバラバラになった死体が一面に倒れている。そのなかにまじって、幼い子供の頭が一つころがっている。兵隊の死よりも、住民の、とくに子供の死は悲しい―

 戦争とは、こんなにも、むごたらしく、すさまじいものなのか―胸をおさえつけられるような思いの撫養兵長の前を、やせおとろえた五つ六つの女の子が母親に手をひかれ、泣きながら戦火をのがれてゆく。そのいたいけな後ろ姿を、撫養兵長は、涙をのんで見守っていた。

沖縄戦・きょうの暦

5月30日

 米軍、首里城に突入。

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