山三四七五部隊第一大隊(長・伊東孝一大尉)第三中隊(長・工藤国雄大尉)の行動を、第二小隊(長・伊藤少尉)第一分隊(長・中島三郎伍長)佐藤武夫上等兵(釧路市〇〇)と第三小隊(長・高橋幸一准尉)第四分隊(長・中山慶松伍長=札幌市南〇〇)の手記によってつづる。
第三中隊は島尻郡兼城(糸満町東北約一キロ)の陣地についていたが、四月二十二日夜、前線へ出発した。
ヤミをさく砲弾のサク裂、流れる火の急流、石垣はくずれて道路にちらばり、立ち木は、小枝も葉も飛ばされ、一本の棒になっている。被弾して破壊され、不吉な影絵を夜空にうかべる民家に、敵弾はやむことなく撃ち込まれている。付近に動くものは、なにひとつない。
部隊は、東風平から東北へ二十五キロほど前進し、その夜は、大里から宮城にかけての陣地で夜あかしした。兵隊は、御賜のタバコを戦友同士でわけてのみ故郷・北海道の話などをしてなつかしんでいた。
二十三日、日中は猛烈な砲弾のため、行動不可能なのでごうにいた。夕方五時ころ、人員点呼をし、第三中隊は西原、翁長方面へ前進を開始した。
砲撃がすごい。遂に、宮城から二百メートルきた大名部落で隊列のなかに砲弾が落下した。装具の重さは約二十五キロ。行軍中は肩にめり込み、からだに重石をのせられたような重量感に、兵隊は、みんなアゴを出していたのに、被弾をさける行動は機敏そのもの。中山伍長もミゾへ飛び込み、はって進み、立ち上がっては走り、夢中だった。
瀬戸豊吉兵長(江別)が負傷した―中山伍長が、それを知ったのは、砲弾が落下しなくなり落ちついてからだった。最初の爆発で走り、二発目、三発目が爆発したとき、伏せたまま振り返った。まだ立っている二、三の兵隊の姿がチラッと見えた(あぶない―)叫びは声にならなかった。この時はもう立っていた兵隊は、大なり小なりの傷を負い、動けなくなっていたことを後刻知った。瀬戸兵長は、もとの中隊陣地へ後送され、その後島尻郡の国吉で戦死した。四月二十四、二十五、二十六の三日間、第三中隊は西原と大名の中間地点で陣地を構築した。二十九日、天長節を期しての総攻撃準備であった。
大隊命令が出た。「第三中隊より、テキ弾筒一個分隊を翁長小学校前台地まで潜入させ、敵戦車の前進を阻止せよ」
第三小隊の第四分隊(長・三浦伍長=勇払郡厚真町〇〇)が部下をつれ出発した。三十分ほどすると、三浦分隊の兵隊たちが、分隊長はねらい撃ちで戦死したといって帰ってきた。
中山伍長は第三小隊長高橋准尉によばれ第四分隊長を命ぜられた。第三中隊の編成(佐藤武夫さんの調査=ゴジックは生存者。敬称略)
▽中隊長工藤国雄大尉▽指揮班五十嵐吉之助、渡会末蔵、水田健二曹長、松田義明軍曹、板井伍長、兵=佐藤厚、今橋正美、小松正男、遠藤春吉、古屋久一、岩崎明、渡辺正、中沢貞夫、川添政士、白崎彰、山田貞雄、高林清吉、大沢政男、大沼弘、松浦利夫、姉崎正之助▽第一小隊長小島重計少尉、中村市太郎、石塚軍曹、高橋義人、山田政二郎、奥田秀雄、三浦弘伍長、兵=芦崎常次郎、河津健次、北坂直、美馬正、田畑幸一、高井政敏、森本清作、山本欽司、仲松太郎、高本林吉、斥清秀、白根伊三郎、枝広勇、寺山嘉一、大島政行、佐久間、堀田忠一、池田義春、佐藤利夫、有原清蔵、阿子島、山下実、山上清次郎、坂三郎、砂土屋作男、久米一、首藤弘、枝屋軍▽第二小隊長伊藤少尉、橋津正太郎、土田弘軍曹、管原豊雄、川口谷勇、中島三郎伍長、兵=田中義輝、佐藤武夫、佐藤岩雄、及川盛吉、松井政一、広川幸治、大越徳一、浅野正治、磯種吉、石野千里、川崎金蔵、中山徳三郎、成田実、井上弘、堀之内種夫、山田耕治、伊藤三次郎、酒井正夫、加藤政義、藤田武男、小橋秀雄、奥原弘、沖縄出身初年兵(名前不明)▽第三小隊長高橋幸一准尉、佐々木高嘉軍曹、東倉広士、金子利夫、中山慶松、中村潔、三浦伍長、兵=高橋三郎、吉田義勝、坂井正夫、加藤宗治、岩崎義美、中奥三男、有田元吉、島取義光、赤坂弘、末田春雄、森田安治、野沢武光、平川三吉、鷲津正太郎、渋谷久助、和田正博、背戸豊吉、土屋安蔵、山田武夫、斎藤武男、対島吉一、堀場友夫、斎藤新一、家森善三郎、金岩元吉、高橋直七、山本。
沖縄戦・きょうの暦
6月2日
那覇南方国場川へ米軍迫る。
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