高橋小隊長は中山伍長の顔をじいっとのぞきこみ「中山、分隊長をやれば死ぬぞ、覚悟はいいか?」
と念をおす。死は好むところではないが、決心はしている。伍長は、無言でうなずいた。
「まあ、みなみな死ぬというわけではないから大じようぶだ・・・」
高橋准尉は、第四分隊に出発をうながした。
中山分隊長は隊員を指揮し、ヤミのなかを翁長小学校前の台地へ進んだ。途中、一人の被害もなく、目的地についた。台地から目をこらして敵状を見ると敵は、一個分隊くらいで制圧できる軍勢ではない。
(こちらはテキ弾筒が三筒―こんな貧弱な兵器では、どうにもならん)あっさり判断した。
〈おじけついているのか?〉分隊長は自問し、そして自答した。
〈死ぬばかりが国のためではないだろう。部下に命があってのものダネだ〉
「攻撃はやめた。現在地で敵状を監視する」
部下に指示を与えた。ぐあいのよく、近くに沖縄の墓所がある。墓に部下をかくし、入り口を偽装して四月二十八日の夜をすごした。
四月二十九日、米軍の進攻がない。そのまま、じっと夕方になるのを待った。
〈今晩十一時ころになれば、中隊から連絡がくる。その時、さがればいい〉
そう考え、部下にも告げて不安を一掃した。
十一時ころ、第三小隊から佐々木高嘉軍曹(奈井江町)が兵一人をつれ、撤退命令を伝達にきた。中山分隊は小隊に戻った。
〈二十九日の総攻撃も延期になった。戦う時は、これからいくらでもある〉
中山伍長は、そう、自分にいいきかせた。
四月三十日夜、第三中隊は、五月四日と改められた総攻撃準備のため、陣地変換を命ぜられた。午後九時、重い装具を背負い、大名を出発、弁ガ岳をのぼり首里を通りぬけ、五月一日の夜明け方、首里北方の平良部落に到着した。
すでに中隊主力は、一四六高地(首里北方約二キロ、勝山高地ともいう)下の配置についていた。
(以上は、中山慶松伍長の手記によったものだが、同じ中隊の第二小隊(長・伊藤少尉)第一分隊の佐藤武夫上等兵の手記によって、四月二十九日以降の工藤中隊の行動をつづる)
外では、照明弾がキラキラ輝いている。海上からの艦砲弾が青い光りを放って高い空を飛んでいる。首里方面では、砲弾のサク裂が赤い火炎をあげている。
佐藤上等兵は、第三中隊長工藤国雄大尉のところへ行ってみた。中隊に、何か重大な命令がきたようだ。各小隊の兵隊が、いそがしそうに走りまわっている。
―天長節を期して総攻撃にうつる―ということを佐藤上等兵は知った。
第三中隊は、食糧、弾薬を整備し、夜間、陣地を出発した。
〈敵は近くまできているな〉
佐藤上等兵は、前方の斜面から、米軍の機銃弾が赤い尾をひいて発射されているのを見た。
前進中の中隊の周辺にしきりに砲弾がサク裂する。戦死者が出る、負傷兵がうなり叫ぶ。行進がはかどらない。第一分隊長中島三郎伍長が切り込みで戦死して以来、佐藤上等兵が分隊の指揮をとっていた。
糸満町兼城の陣地を出発してまだ幾日もたっていないのだが佐藤分隊長は、ずいぶん長い月日がたったような気がした。戦友の数が日一日と少なくなってゆくのが心細い。やがて自分たちも消えてゆくのだと思うと、戦死者、負傷者がでても、悲しみは感ぜず、怒りを覚えた。
砲弾のサク裂するなかを何度かくぐりぬけ、中隊は、やっと目的地についたらしかった。そこは岩石がゴロゴロの山の斜面で、松の木や草のみどりが、まだ残っているのがめずらしかった。
分隊員は、あたりにちらばって伏せた。小隊長伊藤少尉が中隊長工藤大尉のところへ走る。何発もの照明弾で、一帯は昼のように明るい。ボウ、ボウ、ボウ・・・と妙な音をたてて、青白い炎が飛んできた。落下し、青白い炎は飛びちり、燃えだした。墓地で人魂かリンが燃えているようで気味がわるい。黄燐弾(おうりんだん)だ。それが、佐藤分隊長のそばで、ボフッーとにぶい音をたてて破裂し、火花が軍服の袖口に飛び散った。袖口が青白い炎をあげて燃え出した。あわてて手で打ちはらうと、手のひらに青白い炎が移って燃える。熱くないのが不思議だ。分隊長は、草をむしりとってふき取った。
時々、頭上で、すさまじい音がし、弾片がアラレのように地面に突きささる。そのおそろしさに、佐藤分隊長はひたいに油汗をかいていた。身をかくす物がない。分隊員からこれ以上の犠牲者は出したくない。(早くここを移動すればいい)祈るような気持ちだった。
戦記係から
旧陸軍七師団の会副会長染谷五郎氏=札幌市豊平〇〇は、去る四月十二日、欧米視察に出発。約一カ月半にわたる旅程を終え、五月二十六日帰札した。
沖縄戦・きょうの暦
6月3日
那覇南方の国場川、大里稲福の線で両軍対立。菊水九号作戦(二十機)米艦損傷一。
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