和宇慶高地につづくスロープを登って行った米軍は、四百五十メートルを進撃中、日本軍から一発の射撃もうけなかった。ところが、きゆう砲、機関銃陣地帯に一歩足をふみ入れるやいなや、日本軍は一斉に掃射した。前進をストップ、ただちに応戦、数時間にわたり、遂に午後四時二十分、米軍はもとの位置に退却した。米第三大隊は、百人ちかい死傷者をだし、うち十三人が戦死した。
第七師団の右翼は、森川の北方から数百メートル南方へ戦線をはっていた。この戦線は、米軍の進撃方向に平行してまっすぐ、約一キロ半の彼方にある桃原の丘に向いていた。付近一帯の丘に米砲兵隊は二日間にわたって砲弾をうちこんだが、日本軍の陣地がどうなっているか、なにもわからなかった。
四月十九日午前七時三十分、〝禁じられた地域〟に踏みこんだ米軍は、日本軍の猛攻をうけそこにクギづけにされた。いっしょに進撃していた左翼の中隊も、森川の突き出た岩カゲから日本軍の一斉掃射をあび、進めなくなった。
第九十六師団は、宜野湾村と中城村の境界線から、西側の方を進撃していた。左翼(第三八二連隊)は我如古付近、右翼(第三八一連隊)は浦添村の西原方向に攻撃をおこなっていた。
第三八二連隊は、〝墓のある丘〟と西原村桃原丘陵地帯を占領する任務をおび、第三八一部隊は西原の山と、その向うにある浦添村一帯の丘を占領することになった。(一般の読者にはあまり関係のない、興味をもてないことを記述しているが、これが、わが山兵団の戦闘対象の米軍の動向なので、もうすこしつづける)
宜野湾村我如古から浦添西原にいたる米第九十六師団の前線に相対する日本軍は、兵員がだいぶすくなくなった。独立歩兵第十四大隊(長・田村大佐=石兵団第六十四旅団指揮下)独立歩兵第十二大隊(長・賀谷大佐=石兵団第六十三旅団指揮下)であって、第一軽機関銃大隊も配置され、約一千二百の兵力であった。
我如古の前面にいた米第三八二連隊第二大隊は、午前六時四十分、進軍開始、前方にあるひくい連丘を占領した。
問題はただ、左側の突き出た岩山だ。ここからは小銃やきゆう砲で、日本軍が、はげしく撃ちまくってきたので、米軍は大きな被害をうけた。二、三カ所で激戦が展開されたが米軍砲火が沈黙させた。
あるところでは、小さな道のそばのごうの中から、一人の日本兵が飛び出し、奇声をあげながら、米軍一分隊の先頭の戦車めがけ、爆薬をかかえて飛びこんできた。
ごう音もろとも、ひっくり返った戦車は、どういう転覆をしたのか、倒れざま日本軍の防空ごうの入口をふさいだ。おかげで、他の戦車は攻撃をうける心配はなくなった。あちこちで手りゆう弾戦が行なわれたが、これもさまげたとはならず、師団左翼は約八百メートルほど前進した。
我如古東方にいたのは第三八二連隊である。右翼の第一大隊がC中隊を左に、A中隊を右にして挟撃戦の隊形をとって進み〝墓地のある丘〟にくるまでなんらの抵抗もうけなかった。
このあたりの地形は丘の両腹に、石造の墓がいっぱいあり、丘は高さ約二十メートル、長さ一キロぐらいで、付近でひときわ目立っていた。
A、C両中隊が、この近くに前進するやいなや、丘のうえの日本軍は、たちまち静けさをやぶった。C中隊は機関銃ときゆう砲で前進をはばまれ、A中隊も手りゆう弾でその場にクギづけにされた。米軍はこれにこたえるのに、砲兵や戦車をもってした。
彼我の激しい攻防戦がしばらくつづき、正午、A中隊は西側スロープに突撃を敢行、頂上まで攻めのぼったが、そこで反対側に降りるわけにもゆかず、かといって、とどまることもできずただがむしやらに撃ちまくった。中隊長は頂上で日本軍の弾丸で戦死し、戦車一台も四十七ミリ対戦車砲に撃たれてかくざした。
夕暮れまで、激しい戦闘がつづいた。第一大隊が占領した地域は、いつまた日本軍に奪いかえされるかわからぬ丘の北西端を越えた地点と、西側スロープの一部分であった。
山頂はどこも突破することができず、東側は完全に日本軍のものであった。この〝墓地のある丘〟は遠くからは、さほどの陣地があるとは思えない格好をしていた。日本軍は、地下に迷路のように坑道をつくり、たがいに連絡がとれるようにし、両側面から攻撃できるようにつくられた、恐るべき堅固な陣地だったのである。
沖縄戦・きょうの暦
6月17日
日本軍、八重瀬南方八百メートルの高地を奪回。大里方面で白兵戦。島田知事、牛島中将を陣中に見舞う。
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