米軍側からみた戦闘状況は―上陸した米第十軍(司令官サイモン・ボリバー・バックナー中将)のうち第六マリン師団(長・L・C・シエフアード少将指揮二万四千三百五十六人)は、沖縄本島北部山岳地帯へ進んだ。詳細は省略するが、本土からの日本軍の逆上陸を懸念してのものだった。本部半島(もとぶ)西方海上四キロの伊江島にも四月十六日、米陸軍第七十七師団(長・A・D・ブルース少将以下二万二千人)が飛行場占領の目的で上陸、十八日、米従軍記者アーニー・パイルが戦死し二十一日占領を終えた。四月二十五日現在で、米軍は北部地帯の七五パーセントを確保した。
沖縄本島中部から南部へかけて南下したのは、次の三個師団である。米第二十四軍団(長・ホッジ少将)指揮下の米歩兵第七師団(長・A・V・アーノルド少将)、同じく第九十六師団(長・J・C・ブラドリイ少将)第十軍直轄の予備軍、陸軍第二十七師団(長・C・W・グリナー少将)この総員六万六千人(一個師団二万二千人)が、協力して一斉攻撃を敢行すれば日本軍の首里防衛線は突破できる―と、米第二十軍団長ホッジ少将は考え、四月十日以来、作戦をねりはじめた。
第一次総攻撃の日を四月十九日。開始時刻を午前六時四十分と決めた。兵力は増強され、六万七千二百人を東海岸の津覇南方から我如古をへて、嘉数にいたる東西六キロの第一線に配置、事前工作や諸準備をすませ、時間どおりに第一次総攻撃が開始された。
朝霧が、ぬぐうように消え、地表が赤土と緑色のまだらになって浮かびあがる。空襲がはじまった。与那原には米軍機六十七機、岩山地帯の陣地には百八機、首里には百三十九機、その他二百四十六機の合計五百六十機が、日本軍にむかってロケット弾やナパーム弾を投下、機銃掃射を浴びせた。巨木はさけ、岩山はくだけ、あらゆるものが燃えあがる。
海上からは戦艦、巡洋艦、駆逐艦各六隻の艦砲射撃がつづく。さらに、六時ちようどに、米第二十四軍団と師団砲兵二十七個大隊の百五ミリ砲から八インチ曲射砲三百二十四門の砲口が、一斉に開いた。
ごう音は一千の雷が一時に落ちたよう。島じゆうとどろき大地は振動しつづけた。計算上は平均一・五キロごとに七十五門からの砲弾が落下した。この砲撃は、東から西へ戦線が移動するにつれ、ますます激しくなった。日本軍の前線に、ひとしきり砲撃を浴びせ、その後、米軍は、あだかも総攻撃を開始するかのように、日本軍の前線から四百五十メートル後方の陣地に対して砲撃をはじめた。
午前六時三十分。ふたたび、米砲兵隊は、日本軍の前線を乱すため、十分間つづけさまに砲撃。合計四十分間の砲撃で米砲兵隊は、一万九千発の砲撃を日本軍の前線に撃ちこんだ。
午前六時四十分、前線に対する砲撃を中止し、後方地域を砲撃。米歩兵部隊は、進撃をはじめた。たぶん日本軍は、大量の砲弾を浴び、陣地は破壊され、ドギモをぬかれたに違いない―と思いながら・・・。
ところが、この予想は、みごとに裏切られた。日本軍は、陣地の奥深くにひそみ、激しい爆撃、艦砲、砲撃に、いささかも損害はうけていなかった。
わが山兵団が守備する東海岸をめがけて南下してきたのが米歩兵第七師団であった。米攻撃軍の戦列をはなれ、中型戦車二台、火炎放射器つき戦車三台が、和宇慶を通過して進んできて稜線で停止した。そこからは丘のふもとの墓地にたてこもる日本軍の兵隊や陣地がみえた。この陣地めがけて、戦車砲と火炎放射器が一斉に火をふいた。
オレンジ色の炎が、長い尾をひいて日本軍の陣地前面にあたったり、真ッ黒い煙がウズをまいて空高く舞いあがった。
はるか後方で、この光景を見守っている米歩兵のところまでキビ畑や草木がパチパチと燃えつづける音が聞こえてくる。墓のなかで火炎放射を、まともにうけた日本軍は、絶叫と同時に焼け死んだ。火炎放射の攻撃は十五分間つづき、午前七時すぎはじめて米歩兵部隊が進攻をはじめた。
この戦闘で重要視されたのは火炎放射器で、米軍は、この日・四月十九日の戦闘ではじめて使用した。兵の表側にいた日本軍のほとんどは、火炎放射器でやられた。
裏側にいた日本軍は、米軍に激しく抵抗して進撃をくいとめなかなか米軍は頂上を占領することができなかった。
ナイフの刃のような稜線にそって、日米の猛烈な攻防戦が展開された。米軍は、山腹にしがみつき日本軍の反撃をうけながら、死にものぐるいで戦い、日本軍もまた、砲撃と突撃を同時に行なって、米軍の進撃をくいとめようとした。そのため、爆薬箱をかかえ、手リユウ弾を握って、米軍に突っこんでくる日本兵が、途中で日本軍の砲弾に当たり、戦死する光景も米軍側から見られた。
(沖縄戦・米陸軍の記録から)
沖縄戦・きょうの暦
6月16日
米軍、仲座南側から八重瀬岳に進出。
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