米兵の肉薄攻撃をうけた重機関銃分隊(長・三浦伍長)は残った四人のうち、二人は米兵に小銃でおう(殴)殺され、やっと二人が長浜上等兵らのところへ逃げ帰ってきた。
重機陣地では、三浦分隊長がひとり、激しい敵弾をあびながら、陣地内を狂ったように駈けまわっている。部下は戦死し、重機はうばわれ、みずからも重傷を負った三浦伍長は、失った部下をさがしているのか、それともうばわれたとは知らずに、重機をさがしているのか、見ていられないあわれな姿だ。しかし、連れもどしに行きたくとも手りゆう弾で戦っている長浜上等兵たちには行くに行けない。じっとしてはいられない、いらだちのまま、手りゆう弾をさかんに投げつづけた。
間もなく、ほかの小隊が救援にきた。米軍は後退して行った。白兵戦は終わった。
暗くなってから、逃げてきた二人の重機兵が、どうしても機関銃をとりもどしに行きたいから、援護射撃をしてほしい―と、長浜上等兵らのところへたのみにきた。
〈昼間のあのすさまじい敵の射撃を思うと、二人を死地へ出してやるようなものだ〉
長浜上等兵は、決心をつけかね、立ちあがれなかった。
二人の重機兵は、長浜上等兵を〈つめたいやつだ・・・〉と思ったのだろう、援護射撃をあきらめ、二人きりで出かけていった。
かなり時間がたった。二人が出発して二、三時間後、なにも持たずに、やっと二人が戻ってきた。一人は、陣地へつくと同時に絶命、一人は重傷で、ひどい苦しみよう。見かねた高橋小隊長が、暗い表情で見守っていたが沈んだ声で一言
「なんとかしてやれ」
といった。吉岡常治伍長(小樽)が、ふるえる右手に拳銃をにぎり、左手でしっかりおさえた。両眼に、涙がキラキラ光っていた。発射音がひびき、苦しみの声が消えた。
浦田見習士官(北海道)がすっかりうちしおれてやってきた。彼の所属する第三小隊は隊長以下全滅し、生存者はわずか三人だけだ―という。
まるで、あの世から戻ってきた人のように、生きているのが、悪い―といった様子だった。
長浜上等兵の所属する第二小隊第四分隊も、この日、岡田春吉一等兵(森町)向芳雄一等兵(渡島支庁)が戦死し、残員は四人。それも、きのう(二十九日)からつづいている激戦につかれはて、話しあう者もいない。
〈さきに死んでいった戦友が、うらやましい。一刻も早く、この死闘からのがれたい―〉そんな気持ちでいっぱい。
戦死体は山になっているが、だれも、かたづける気力がない。戦死体のうえに腰をかけ、タバコをふかす者もいる。死はもう、特別なものではなくなっていた。高橋小隊長が命令し、吉岡伍長が泣きながら重傷兵を死なせたのも、死があまりにも身近にあるからだ。これと同じケースがあちこちでみられた。
すでに木口中隊の生存残者は全体の半数にみたず、この日・三十日から、工兵隊や他部隊からの支援をうけるようになった。
三十日の戦死者本道出身者のみ=中山松一伍長(函館)福田常蔵伍長(森町)森川清上等兵(函館)中村重三郎上等兵(木古内)首藤慶助上等兵(北海道)渡辺久美雄上等兵(函館)松山勲一等兵(虻田)樋口松雄上等兵(江差)村谷上等兵(渡島支庁)三浦強上等兵(北海道)
沖縄戦・きょうの暦
6月22日
午前四時半、牛島軍司令官、長参謀長は摩文仁八五高地において自決。
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