山三四七六部隊(長・金山均大佐)第一大隊(長・丸地軍次大尉)の第一機関銃中隊(長・山田博中尉=札幌市琴似〇〇富子夫人)の行動を、鈴木繁雄曹長(富良野町〇〇)笹森兼太郎兵長(釧路市〇〇)佐藤三郎伍長(広尾郡大樹町〇〇)鈴木清三伍長(斜里町〇〇)以上四氏の手記と、本社資料をもとにつづる。
昭和十九年八月十五日、那覇港上陸、夜行軍で首里をとおり、十六日、中頭郡具志川村に到着。(第一機関銃)中隊は、美黒国民学校付近で陣地構築を始めた。食糧は乏しかったが、村の勤労奉仕の娘さんたちとの楽しい共同作業であった。
十二月十日、武兵団の台湾転出にともない、具志川村を出発、島尻郡一帯に到着(部隊本部は東風平村=コチンダ)ふたたび陣地構築。こんどは、石岩地帯のため、ダイナマイトを使用する。鈴木曹長は松田松一上等兵(東鷹栖)藤原弘兵長(稚内)を助手に、火薬係として、中隊の各陣地をまわるのが日課だった。
また、島尻地区には丸太がないので、竹内文蔵伍長(置戸)、山内周一伍長、柛代貞男伍長、菅野又信伍長、斉藤兵長らが、交代で、中頭地区から運搬した。
第三大隊(長・和田弘大尉)を編成することになり、第一機関銃中隊から桂田巳之吉中尉(札幌・召集将校)明田軍曹、村田富男軍曹(釧路)などが、新設の第三機関銃中隊に転出していった。桂田中尉を長とする歩兵砲小隊は砲がないので、迫撃砲二門を装備していた。
第一機関銃中隊も、つぎのように編成替えになった。
▽中隊長山田博中尉(札幌)▽指揮班長藤田静男准尉▽兵器ガス係下士官鈴木繁雄曹長▽第一小隊長藤江正男中尉(池田)▽第二小隊長石沢寅男准尉(福島県)▽第三小隊長星野慧一曹長(群馬県)▽歩兵砲小隊宮田中尉、山崎徹曹長、菅原悟軍曹(十勝清水)
鈴木曹長は、松田上等兵と戦車攻撃用の急造爆雷づくりに忙しくなった。さらに、中隊の兵器ガス係下士官として、急にふえた現地召集兵に、武器を支給しなければならない責任も生じてきた。
第一に銃剣が不足だ。鉄道のレールをはずし、工務兵が、岩石をけずるのに製作したタガネの要領で作り、棒に取り付けた。竹ヤリならぬレール・ヤリだ。
さらに、紙をはり合わせて大砲を作った相馬大作の故事にならい松丸太で大砲を作った。直径二十センチくらいの松丸太を六、七十センチの長さに切る。中心部を半分くらいまでくりぬき外側を針金でまいて割れないようにする。くりぬいた穴の底に火薬を入れ、そのうえに、カン詰めのあきカンにクギや瀬戸物の破片、小さく切った針金などをいっぱい入れて大砲の要領で撃つ。試射が行なわれ、八十メートルから百五十メートルくらいも飛んだ。
こうして製作された、沖縄特産の最新兵器は、後日、第一線まで兵隊にかつがれて出陣したが、メードイン・USAのスマートな兵器の大群に圧倒され、すっかりはにかんで、用をなさなかった。
戦記係から
いま、沖縄戦没将兵のアルバムを編集中ですが、まだ、写真を提供されていないご遺族戦友の方は、至急ご送付ください。後日、原版は、かならずご返送いたします。
沖縄戦・きょうの暦
6月23日 米軍、久米島に上陸戦闘は終わりになって日本兵の食糧獲得のためのゲリラ戦が局地的に行なわれていた。
コメント