五月十五日付け第四十四回で石兵団の志田十司夫上等兵(札幌北〇〇)は、肩から背中にかけて重傷をおい、大隊本部病院(沢岻=たくし)まで、約一キロの道を銃をつえに歩きだしたことを書いた。その後どうなったか―
途中、何十回やすんだか数えてもいなかった。あえぎ、あえぎ、やっと病院につく。午前六時ごろだった(四月十八日ごろ)病院の洞穴にはいった。薄ぐらい内部に、丸太づくりの寝台が上下二段、ずらっとならんでいる。その一つに横たわり、軍医の診断をうけた。
軍医はザクザクになっている背中の傷口にヨードチンキをぬり、まわりをハサミで切りはじめた。麻酔なしだ。
うつぶせになっている志田上等兵(以下私)は、痛いというより、わきの下と、ひたいからあぶら汗を流していた。
「オイ、痛いだろう?」
軍医がたずねた。私は考えることがあった。
「たいして、痛みは感じません」
「お前は、神経がかよっていないのではないか?」
そういいながらも、軍医はハサミを使っている。
〈陸軍病院に入院すると、まず、たすからない。一日にコップに一杯の水をもらうだけ。薬品が不足だから、治療も三日に一度くらいしかやってくれない―と、戦友たちから聞いている。早くここを出て、まえにいた安謝=あさ=部落に作ってある小隊の洞穴へ行こう〉
私は、そればかり考えていた。
米軍が上陸する前、那覇市内の中心部に天幕をはり、まわりにバラ線をまわして物資が保管されてあった。ロウソク、みそ、しょうゆ、米など。これを、那覇市民が疎開したあと、私たち石兵団が切り込みに行くという理由をつけ、小隊の洞穴に運んだ。
物資監視兵として、小隊から三人が残留した。なかの一人は、私とはなかよしの小田衛生一等兵だ。陣地に行きさえすれば、生きのびられる自信があった。
私は手術を終え、丸太の寝台へもどされた。負傷兵が続々と運ばれてくる。みるみるうちに寝台がふさがってしまった。絶叫、うなり、悲鳴―が洞穴内に充満する。
衛生兵が、負傷兵を連れて通りかかった。兵隊の足は大きな赤カブのようにはれている。ガスエソだ。軍医がやってきた。
「これは切らなきやだめだ。すぐ、手術の準備・・・」
ガスエソの兵隊は手術室へ運ばれていった。やがて、悲鳴ともうめきともつかぬ絶叫―けものの、苦しみ、ほえるような声がひびいてきた。
〈衛生兵が二人がかりで患者の両手両足をおさえ、麻酔もかけずに足を切断しているのだろう〉
絶叫のすごさ、悲惨さに、耳をふさぎたい。だが、手がうごかせない。膚がアワだつ。歯をかみしめ、目をつぶって、がまんしているほかはなかった。
うなり声が、いつまでも続く。そのあいだじゆう、負傷兵たちは、自分が大手術をうけているような重苦しい表情をうかべていた。 いやになるくらい泣き叫ぶ声を聞かされつづけ、神経がマヒしてしまったのだろう、うなり声が、いつとはなしに聞こえなくなったのに気がついた。衛生兵にたずねると、ガスエソの兵隊は首里の陸軍病院へ担送した―ということだった。
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