久米分隊長ら三人は、小沢をのぼり山頂に出た。直径三十センチくらいの松が五、六本、砲弾で幹のなかほどからへし折られ、黒々と立っている。山のふもとには、夜目にも白々と道路がつづき、そのさきに、かすかに部落らしいものが見える。
分隊長は、あれが小波津で、いま激しい争奪戦が演じられているところだ―という。三人は、小波津に向かい、斜面をすこしおりると、大きな墓所に出た。コンクリートでつくられた墓が、メチヤメチヤにこわされていた。のぞいて見ると兵隊が五人、あぐらをかいてすわっていた。
そばに破壊された連隊砲、血と土にまみれた五、六人の戦死体が放置されたままだ。きなくさいにおいと、血のにおい―満山兵長は、胸がつまった。
「オイッ!しっかりしろ!」
久米分隊長が気合いをかける。なかの一人が
「オウ・・・満山」
ヨロヨロと立ちあがってきた。よく見ると、小柳兵長だ。下士候時代の仲良し二人。意外な再開に、手をとりあってよろこんだ。
陽気で元気のいい小柳兵長が、すっかり、うちしおれている。彼の話によると―
きょう(二十八日)の午後、前方の街道をM4戦車群が前進してきた。じゆうぶんひきつけておいて、先頭の一台にター弾(連隊砲の対戦車用特殊砲弾で、命中すると、十センチ(M4戦車の前頭板は十センチあった)の鋼板でもつらぬき、秘密兵器の一つになっていた)の直接射撃をくわせ、一発で炎上させた。
小柳兵長ら分隊員が得意になってよろこんだのもつかの間、陣地は猛烈な集中砲火をあび、砲は破壊され、兵隊は戦死、生存者五人になってしまった。また、小柳兵長らが陣地をかまえた斜面には、住民の墓が四つならんでいた。これを日本軍が重機関銃陣地として利用したため、四つとも、徹底的にやられてしまった―という。連隊砲の片方の車輪がこわれ、揺架(ようが・発射反動をセーブするため、砲身の下にとりつけてある大砲の部分品)からバネが飛び出し、砲はかたむいて土にめりこんでいる。
〈砲を失った砲手―これから大変だな〉満山兵長は戦友・小柳に同情した。
「小柳、がんばれよ」
満山兵長は、戦友の肩をたたき、久米分隊長と出発した。小波津部落を前面にひかえ、右へ斜面を横切って進む。破壊された、いくつもの墓のそばをとおりすぎた。どれもこれも、火事場のあとのようなにおいをただよわせて、静まりかえっていた。
一キロほど進み、小沢に出た。水がちよろちよろ流れている。前方は広い砂糖キビ畑。照明弾も砲弾も飛んでこない。久米分隊長は、黒々と静まりかえる敵陣をしばらく見ていたが、陣地をここにきめ、三人は帰途についた。
三人が津嘉山に帰りついたのは、二十九日の午前四時ごろ。久米分隊長の連隊本部への報告が済むのを待って、三人は眠りについた。
戦記係から
上川郡和寒町〇〇金村恵美子さんから、写真同封の手紙がとどいた。
「私の父、岡豊文=当時三十歳=は、二十年六月十八日沖縄でゆくえ不明になりました。当時私は六歳、妹は四歳、弟は一歳。父の部隊は珠というだけを記憶しています。母は、再婚して稚内市〇〇で農業をしていますが、珠部隊のことはよくわかりません」ご存じの方は戦記係まで。
コメント