116樫木大尉の手記〈3〉原色の魚 南海特有の青、黄、赤 異国的な風俗やことば

 中頭地区以南は、比較的ひらけていたが以北は、未開の森林地帯であった。そのなかで、金武村だけは、二百戸ほどの町。付近の平野は「年にお米が二度とれる」と歌にうたわれる沖縄唯一の水田地帯であった。

 首都の首里以南は全くのサンゴ礁地帯。その岩の地表にソテツがおいしげっている。部落の沿道にはパパイヤを植え畑には砂糖キビとサツマイモ。サツマイモは種類が多く、主食用と馬糧用があった。馬は小柄で満州馬と日本馬の中間くらい。

 部隊は、部落の民家をさけ、草ぶき兵舎に宿営した。住民の家庭生活の真相は、詳しくは握できなかった。学校、郵便局、町役場などには「標準語で話しましよう」とポスターがはられ兵隊には、部落民同士の話は、聞きとれなかった。おもに北海道出身の将兵は、同じ日本とはいいながら話の通じない異国風な沖縄の風俗に異様な感をもった。

 夕方、畑仕事を終えた婦人がそろってイモをいれたカゴを頭にのせて帰宅する姿など、いまでも記憶に残っている。

 中頭郡の石川部落や島尻郡の糸満部落は漁師町として知られその魚類は、タコはごく小さくイカは特に大きい。浅瀬で見かける浮遊小魚は、南海特有の青、黄、赤の原色にいろどられ、海底にサンゴが見えるようだった。

 嘉手納飛行場(中飛行場)では、連日、友軍機が数機、爆音高らかに飛んでいたが、二十年一月末、陣地構築中の五、六百メートル上空を南下するわが大編隊を見た。遠く南方に出動し、数々の戦果をあげている―との情報をきき、空軍の精鋭に敬意を表し、戦勝を祈念したが、その後何日たっても北上する機影を見なかった。この大編隊は、台湾沖の戦闘に参加した最後の日本航空部隊であったことを知ったのは、だいぶたってからだった。

 まだ戦闘にならないある日、樫木副官は、部落の人にこんな質問をしたことがある。

「あなたがたは、戦争になったら、日本と米国と、どちらが勝てばいいと思うか?」

 その答えは

「どちらがとはいえない。ただ戦争はしないほうがいい・・・」

 当時、沖縄の青年のほとんどは、ハワイ、フイリピン、大阪、神戸に出かせぎしていた。その人の答えは、しようじきであったといえよう。

 十九年九月二日、師団司令部に各部隊長集合がかかり、雨宮師団長の訓示があった。

 その要旨は

一、大本営の状況判断として九月二日以降、本島における決戦を予期する。

二、築城は、ただちに戦闘しうるよう構築し、特に銃砲眼部をいそぐこと。

三、戦闘資材の整備を行なうこと。

四、教育訓練を実施すること。

五、宿営と戦闘部署との一致を図ること。

六、米軍の兵力判断として①十九年二月から三月にかけ、支那、台湾、南西諸島、小笠原諸島にたいし、一般師団八個師団海兵師団五個師団を動員している。②その内訳は(イ)ニユーギニア方面七個師団(ロ)オーストラリア三、四個師団(マッカーサー将軍の予備兵力として比島方面に使用するもののごとし、状況によっては、比島以外にも使用する)

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