115樫木大尉の手記〈2〉沖縄の民情 民兵の竹ヤリ訓練 各隊は兵舎、陣地つくり

 十九年八月以降の山三四七五部隊の任務と行動概要は

一、上陸する米軍を水際で全滅させるための洞穴陣地を構築すること。(このため、坑木のきり出しと穴掘りをはじめた)

二、八月中にレプラ患者を金武村付近に集中するべく各部隊の軍医、衛生

下士官、兵を総動員した(日本軍が上陸するまでは、レプラ患者は各部落に散在していた)

三、沖縄出身の初年兵を受領するまえに各部隊は天幕露営を撤収、山林から資材を集め、兵舎をつくり初年兵を収容した。

四、九月に沖縄出身の初年兵(各中隊約四十人あて)を徴集して教育をはじめた。

五、沖縄移駐直前、第三大隊を南方へ派遣したため、第三大隊を新設した。第一大隊の第四中隊(早坂隊)を第九中隊に、第二大隊の第八中隊(金森隊)を第十中隊に、さらに各中隊からの選出者をもって第十一中隊(冷牟田隊)を新設。山三四七五部隊は三個大隊編成になった。一個大隊は四個中隊(一般中隊三、機関銃中隊一、歩兵砲小隊一)の編成。

六、十九年十月十日午前六時初空襲のとき、第一大隊(伊東大隊)では、部隊の将校を集め、現地戦術の訓練を実施中だった。七時ころ、約一千メートル上空で、あたかもツバメの群れのように飛びかうグラマン、カーチスの大編隊を発見、ただちに部隊を予定の陣地に分散配置した。米軍機編隊は、約二時間で撤退したが、この空襲で、各飛行場や、首里、那覇はじめ各町村、那覇港は大きな損害をうけた。(県立高女校舎の焼失、糧抹(まつ)倉庫の被害、喜手納飛行場展望哨(しよう)兵の戦死など)

 その後、部隊は糸満地区へ移駐したが、そのとき、海中に墜落した米軍機二機をみて、わが高射砲隊、駆逐艦などの対空戦闘の正確さに、自信をふかめた。

七、一月一日、十日、二十二日と空襲をうけたが、被害は大したことなく、敵は、空襲と偵察を同時に行なっていた。

八、島尻地区に陣地構築中の武兵団(第九師団)が台湾に出動したため、山兵団は中頭地区から糸満付近を中心として阿波根から真栄里、喜屋武、麻文仁村にわたる地域に移駐、西海岸の防衛を担当することになった。ふたたび草ぶき兵舎をつくり、陣地構築をつづけた。

 輜重(しちよう)隊はじめ各部隊行李(こうり)隊は、中頭地区から総力をあげて坑木を伐採し、運搬して陣地の完成を急ぎ、各隊では、部落自衛隊員を集め、分担して竹ヤリ軍の指導訓練を行なった。

 沖縄の民情などについて 沖縄上陸後は、各部隊では、大隊ごとに分屯(ぶんとん=わかれて住む)したので、同じ部隊内の者でも、大隊が違っていると、ほとんど会うことができなかった。

 また、部隊本部を中心として、各大隊には、通信隊による有線電話の連絡と、連絡兵による通信連絡があったが、兵隊はもっぱら陣地構築にあけくれていたし、その後は戦闘になったので、兵隊間の連絡は、満州をはなれると同時に、以来、絶えてしまったのが実情である。

 沖縄本島は南北二十五里(九十六キロともいう)東西は、せまいところで一里余(三キロともいう)ひろいところで五里(十九キロ)の小島である。

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