翁長戦線の木口中隊(山三四七六・三大・十一中隊)は、四月三十日現在、隊員の八割を失い、残る者は約四十人。全部負傷兵だ。疲れはて、戦死体も放置したままだった。
これにたいし、米軍は約七百人。夕方、一日の戦闘がすむと日本軍の陣地近くまでやってきて、戦死体や負傷兵を収容する。長浜慶治上等兵(赤平市〇〇)は、その戦友愛をうらやましく思う。だが敵は敵。負傷兵を背負って帰ろうとする米兵を射撃した。敵を撃つ―悲しい習慣。米兵三人は、不意をつかれてうろたえ「オー・・・オー・・・」
と、大きな泣き声をあげて逃げまどう。が、重傷者を置きざりにしようとはしない。しやにむに連れて墓へ逃げこんだ。その墓には、日本軍の戦死体も六体はいっていた。上等兵ら二、三人は入り口に近より、交代で撃ちまくった。
(深追いせず、引きあげたが、なかの米兵は、どんな気持ちだったろう―と、手記に当時を述懐している)
五月一日、夜があけた。敵の肉薄攻撃がない。しかし、迫撃砲弾は、きのうより猛烈だ。
松川分隊長が負傷した。長浜上等兵は第二小隊長高橋少尉(函館)のもとへ報告に走った。
高橋小隊長は今田敏郎上等兵(福島県)と、軽機におおいかぶさるようにして戦死していた。手りゆう弾だ。敵は、日本軍が疲れはて、眠りこける朝がた攻めてくる。陣地が離れていた上等兵らには、二人の戦死がわからなかった。
全身の力がぬけてゆくような感じ。めい福を祈る暇も、悲しんでいる暇もなく、敵兵が迫り手りゆう弾を投げてよこす。こちらからも投げかえす。戦死者がでる。すぐ、その手りゆう弾をとって自分のものにする。不足していたのだ。敵は強力だ。もちこたえられそうもない。長浜上等兵は、てき弾筒分隊へ応援を求めに走った。任務だけが、すべてを忘れさせてくれる。
てき弾筒分隊の陣地に駆け込んだ。金城二等兵(沖縄)一人だけだ。分隊長清野軍曹(函館水産学校出身)以下三人は、内臓を露出させて倒れていた。
「清野ッ!・・・清野ッ!」
長浜上等兵は、同年兵の軍曹を抱きかかえ、その名を呼びつづけた。迫撃砲弾をあびたようだ。呼んだところで絶命した軍曹が生きかえるものではなかった。めい福を祈り、戦死体の姿をととのえた。
すぐ、上等兵は金城二等兵にてき弾筒の取りあつかいかたをたずねた。操作をならっているとき、遠くでラッパが鳴った。金城二等兵は、ギクとして手をとめた。
「あれは、突撃ラッパでありますか?」
有線は線を切られ、無線は妨害電波や器材の不整備でダメ、連絡兵も戦死者続出で使えなくなり、連絡のすべてはラッパを使用していた。上等兵は耳をすました。突撃ラッパではない。
「あれは、違う」
金城二等兵は、安心した様子で、ふたたび、説明をはじめた。上等兵は、その態度に不審を感じた。
「突撃ラッパならどうする?」
二等兵は悲しそうな顔をした。
「自分は、突撃には、どうしてもついて行けません。ここで自決します」
くりあげ入隊で初年兵は十八、九歳、戦闘に自信がないのも無理はなかった。上等兵は、うちしおれる初年兵の肩をたたいて元気づけた。
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