むかしから沖縄の女は、じっとしているよりは、少しでもかせいで、子供に教育を仕込んでおこうとする心意気がある―という。
沖縄の人は学問好きだ。学者も出ているが、有名無名の郷土史家の多彩さがその証拠である。
昭和三十八年七月十九日なくなった沖縄出身の詩人・山之口獏(やまのぐち・ばく、本名・山口重三郎)さんは夕張市清嶺町三区の名嘉永昌(なか・えいしょう)さんにいわせると「バクさん」である。
バクさんは那覇で生まれ、中学四年生で上京。くみ取り屋をはじめ、さまざまな生活苦とたたかいながら珠玉のような詩を書きつづけた人だが、名嘉さんもまた、若くして上京、作家久米正雄の書生を十年以上もやった人だ。学問好き、学芸好きの一例だが、その名嘉さんと、夕張地区沖縄会結成のあと夜汽車のなかでバクさんを語り、青春や沖縄を語りあった。
昭和十八年六月ごろ、記者は山砲兵上等兵として、旭川北部第六部隊長谷川隊に、高玉英一補充兵を迎えた。道立図書館司書の高玉さんは、薄い詩誌を一冊もって入隊していた。
新聞ラジオいっさい禁止の内務班で、記者は活字に飢えていた。詩誌「山河」のなかにバクさんの詩「ねずみ」があった。それは―〈生死の生をほっぽり出して/ねずみが一匹浮彫みたいに/往来のまんなかにもりあがってゐた/まもなくねずみはひらたくなった/いろんな/車輪が/すべって来ては/あいろんみたいにねずみをのした/ねずみはだんだんひらたくなった/ひらたくなるにしたがって/ねずみは/ねずみ一匹の/ねずみでもなければ一匹でもなくなって/その死の影すら消え果てた/ある日往来に出てみると/ひらたい物が一枚/陽にたゝかれて反ってゐた〉
すでにノモンハン戦のみじめな敗戦状況は、ちまたにささやかれていた。
〈ああ、かわいそうに兵隊さん…〉そう絶叫するバクさんの暖かい心が身にしみ、いま直面している戦争の無残、激烈さを覚悟した。〈バクさんが鎮魂歌にうたいあげているネズミに見習おう〉そう思った。
戦後、バクさんは、激戦地となった郷土沖縄をしのび、二十万にのぼる戦没者の鎮魂歌「摩文仁の丘」を作った。これを沖縄二世の歌手・仲宗根美樹が歌っているレコードを、今年二月下旬の深夜、那覇市の酒房「山原」(やんはる)で聞き、涙が流れてならなかった。
〈バクさん、あれから二十年私はあなたの生れた沖縄へ、あなたのうた「ねずみ」の実証を命ぜられてきているのです。きようも、草むらの遺骨に祈りました。
石垣のうえから写真をとろうとしてころげ落ち、尻もちをついても痛くてたまらない。宮本繁君は、その痛さを忘れるには泡盛がいいといって、ここへ案内され、はじめて、あなたの激戦地・沖縄へささげる鎮魂歌を聞きました。バクさん、二十年前にあわせて、今夜も、ほんとうにありがとうございます〉
仲宗根美樹の澄んだ強い美声が、何度も何度も、からだをつきぬける。全身が耳になったような感じだった。貧乏だったバクさんらしい素ぼくで簡素な鎮魂歌。純粋なものの存在に涙が流れ、別れがたい愛着を感じて二度、三度とそのレコードをジュースボックスにしかけた。泣きながら流行歌手のレコードに聞きいる中年男―そんな自制心など、考えてもみなかった。
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