〈とにかく、行けるところまで行ってやれ〉
やけ気味になった藤沢軍曹は医療用アルコールを一気に二合(〇・三六リットル)ほどのんで、一号病室の入り口から飛び出した。
外は射撃音が遠く、案外、しずかだ。人の気配もない。照明弾がたくさんあがると、明るくなるが、脱走にはもってこいのおぼろ月夜だ。
軍曹は前かがみに、上半身をまげた姿勢で歩いていた。酔いがまわり、動悸(き)がはげしい。くるしいが、敵の目をさけるためにはやむをえない。
静かな晩だ。ともすると、敵に対する警戒心がうすれる。酔いがまわり、神経が太くなってもいたが・・・
起伏の多い地点にさしかかる。ここをすぎれば、富盛から安里に通ずる街道を中心とする一面の平地になるのだが、ぶつかった高低のある地点は、米軍の第一線になっていた。見上げると、台地上のあちこちからセキばらいや話し声が聞こえ、右側の機関銃は、しきりに撃ちまくっている。
軍曹は、目の前にカン詰めの箱があるのを発見し、二個ぬすみとった。
ふと、頂上へ視線をむけると、黒い人影が軍曹のほうに向って、まっすぐおりてきた。あわてて、カン詰めをもとへもどし、中腹から下へおり、左へ回りながら急斜面をすべりおりた。
右手は家屋の焼け落ちたあと。前方は水田。そのなかへすべりこむ。稲が四、五㌢ほどのびている。はって進んだ。至近弾がないのをさいわいに、水田のなかにあぐらをかいて、前方の街道付近の様子をうかがう。
安里から右側の八重瀬岳の斜面は、照明弾に、くっきりうきあがり、艦砲の猛射をあびて、岩石がさかんに飛び散っている。
〈ものすごいなあ―これからあそこへ飛び込むのは、たいへんなことだぞ…〉
しかし、行かねばならぬ。水田からはいあがり、草のかげを伝って進む。友軍の姿が、あちこちに見えはじめ、道路の要所要所には、小陣地を構築している。安里部落だ。
〈やっと原隊に帰ってきたぞ。これで、自由のからだ〉
敵のりゆう散弾に追われながら、軍曹は、真栄平に通ずる道を走った。友軍の守備範囲がせまくなったためか、敵の艦砲弾が集中して、すさまじい。夜は、すっかりあけていた。藤沢軍曹は、疲れはてた姿で原隊に到着した。木谷少佐、沢田軍曹の前に立ち、新城臨時野戦病院の最後を報告した。泣くまいと思いながらも、胸いっぱいになり涙があふれ落ちた。
五味伍長は、あの夜、無事、原隊にたどりついたが、二日目に艦砲弾で戦死した―ときかされ心からめい福を祈った。
夕方まで休養をとり、生気をとりもどして新垣の軍医部に帰りついた。そこで、升田准尉、岡田曹長、松田曹長と手をとりあって、生きていることをよろこびあった。
軍医部長と根本大尉、見沢少尉に、新城野病の状況をくわしく報告、藤沢軍曹の多難だった任務は終わった。
〈それから十日後に、新垣の友軍は玉砕し、軍曹は生き残った軍医部員をつれて、敵中を突破し、ふたたび、新城部落のあの野戦病院のドウクツへ戻る運命にあったが、それはあとにする〉
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