五月四日の山岳団総攻撃に、山三四七七部隊は発煙の任務をもって首里前方に出動、部隊の半数が戦死し負傷した。
五月十五日、大名部落から約二十キロ前後して山三四七八部隊(捜索第二十四連隊)の指揮下にはいり、左側の陣地につく。敵は首里に通ずる道路の向こう側におり、これと対陣していた。五十嵐隊長は大隊長、高橋金平中尉(山形)は中隊長、川崎信実中尉(北海道)中井少尉は小隊長、岡沢博准尉は指揮班長、真柳伍長は兵器係として指揮班にいた。
日中、敵の砲撃、艦砲、空爆が激しく、穴のなかの陣地にいるよりは、そとの畑にいた方が安全なくらい。昼間は穴にひそみ、夜になると切り込み隊を編成して出てゆくが、照明弾と、かくしマイクにやられ、ほとんど帰ってこない。切り込みの命令は死の命令だった。
米軍は第一線を赤い布のようなもので表示し、爆撃をさけているので、米軍のそば近くで向きあっているかぎり、敵機がいくら飛んできても安全だった。
そのうちに米軍は、谷間に集結しはじめた―との情報がはいった。部隊は、軽装甲車から取りはずした重機関銃の援護射撃をうけて敵陣へ突撃を行なった。手りゅう弾がただひとつの兵器だったが、米軍は不意うちをくい相当な犠牲者をだした。しかし、引きあげるとき部隊は敵の銃砲撃をうけ、高橋中隊だけでも機関銃手の高田兵長(虻田)はじめ約二十人の戦死者をだした。
敵はこの勢いをかり、友軍の第一線を突破、攻撃をはじめた。高橋中隊は応戦にたったが一時間たらずの戦闘で野村兵長、伊藤軍曹、浅野衛生伍長ら多数が戦死した。
連日ものすごい砲爆撃をうけ首里はすっかり変形し、どこが友軍陣地なのかわからなくなる。
部隊の右翼の運玉森には、山三四七五部隊がいた。非常な苦戦で半数以上が戦死した―との情報がつたわってくる。
前線で負傷した兵隊が、二、三人で助けあったり、あるいは一人で、はいずったりしながら島尻方面へ後退してゆく。その数は一日ごとに多くなり、見送る真柳伍長はそのあわれな姿に胸をしめつけられる思いだった。
五月二十六日、首里の第三十二軍司令部は南下を決意し、先発隊を出し、二十七日から後退をはじめた。
部隊も三十日朝の命令で、今夜移動する、負傷者は日中移動せよ―と指示をうけた。
大名部落の部隊医務室の負傷者の半数は、ひるのうちに移動、重傷者は死を覚悟して動かなかった。
「われわれは、どうせうごけないのだから、もう、どうなってもいい。最期までここにいる」
彼等はそういって残った。あすは、敵の馬のり攻撃をうけて全滅する―それは出発する者にとってうしろ髪をひかれる思いだった。
部隊は、日ぐれとともに移動を開始した。どろんこ道に戦死者。また死にきれぬ疲労した負傷兵がたくさんいた。出発した負傷者のうち何人が島尻の陣地へ到着できたか―真柳伍長はくらい気持ちになった。与那覇の川ほとりはとくにひどく戦死体でいっぱいだった。
部隊は、まだ夜があけきらぬころ、新垣のもとの陣地にたどりついた。
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