六月十四日、中村部隊長は、真壁のゴウへ移った。十七日の夜なか部隊長命令がでた。
〈真壁ゴウに、各将校を派遣せよ〉
橘少尉らはゴウで命令をうけた。
〈鈴木中隊=第四中隊=は、与座岳の工兵隊のゴウにはいり金山大佐=山三四七六部隊長=の指揮にはいれ〉
少尉は鈴木中隊のいる真栄里のゴウへ走り、そのむねをつたえ、真壁のゴウへもどって、中村部隊長に復命した。背の高いりっぱな中村卯之助大佐は
「橘少尉は幾歳になるか?」
少尉は、としをきかれ、変な気がしたが
「はい、二十四歳であります」
大佐は、一瞬、さびしそうな顔をした。が、思いきったように
「まだ、人生の半分までもいっていないな。橘少尉、国のためだ、いのちをくれ・・・」
死は覚悟のうえの少尉は、おどろきはしなかった。部隊長は
「他部隊にわが一個中隊をやるのは、このさいおしい。だがどうせやらなければならないのなら、一番成績の優秀な中隊をやりたい。他部隊へゆき、そこの部隊にまけるようでは、輜重隊のなおれになるからな・・・配属していっても、しっかりやってもらいたい・・・」
少尉ら第四中隊の出陣を祝って、二、三本残っていたビールで、最後の乾杯が行なわれた。
中村大佐は、ばん馬大隊(第一大隊)の生き残り兵力と、自動車大隊(第二大隊)の第五、第六中隊を指揮し、師団直轄部隊となって、服藤第二大隊長と真壁、新垣一帯に布陣した。
これは陸軍士官学校同期の雨宮師団長とのかねての約束だったのだ。
六月二十日ごろ、中村部隊長は服藤大隊長といっしょに敵の火炎放射をあびて戦死した―と橘少尉はきいた。
少尉は鈴木中隊長、村中少尉(第一小隊長)小山田少尉(第三小隊長)らと与座岳にたてこもっている、ある小隊に配属になった。兵器としては、軽機一少量の肉薄攻撃用爆雷、手製のてき弾筒、手りゆう弾などであった。
西海岸の真栄里の陣地前面に敵が上陸し、ジープがさかんに走りまわっていた。
橘少尉指揮の第二小隊は五百メートル前方の与座岳右はじに陣地をかまえるよう命令をうけた。
そこは、りっぱな陣地で、たてに掘りぬいた監視ゴウもあった。
監視ゴウから見ると、前方約二百メートルの丘から黒い煙がモウモウとたちのぼっている。山三四七六部隊の深見(八千代大尉・第二)大隊を米軍は火炎放射器付き戦車と航空機で攻め、はげしい陣地争奪戦がくりひろげられていた。せまい地域に追いつめられてしまった深見大隊はじめ日本軍の損害は、日ましに増加してきた。
橘小隊は、十九日つぎの命令をうけた。
〈十九日、敵は、橘小隊の陣地前までおしよせてくるから、小隊は肉薄攻撃班を陣地前方五百メートルの地点に配置せよ〉
夜であった。少尉は兵と最後の食事をすませた。タコツボを掘る。少尉以下各兵は、黄色爆雷を抱いてタコツボにはいった。
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