宣撫班員から聞いた敗戦の話に、橘少尉はその夜ねむられなかった。
〈あすのあさ、ジープで米軍の大尉、中尉、梶川二世がくる・・・〉
ねぐるしい夜があけた。七人は協議し、橘少尉を一同の責任者としてえらび、米軍との交渉にのぞんだ。
午前八時、米軍将校と対面した橘少尉は
「日本軍が敗けたという証拠を見せてくれれば、明朝、武装解除に応ずる」
梶川二世が通訳し、少尉は午後六時までに帰る約束のうえ、ジープに乗せられた。
まず、見せられたところは、宣撫班のいる宿舎だった。ここでは日本軍の将校以下約三十人が、米軍の指揮にはいり、宣撫しながら日本兵をドウクツから助けだす仕事をしていた。
つぎに、教会へ連れてゆかれた。天皇陛下の終戦のおことばが録音盤となって空輸されていた。
少尉は、それを聞いた。涙がとめどなく流れ、泣けて泣けてしかたがなかった。
昼ころ、少尉はジープで石川収容所へ案内された。山兵団生存者中の最上級者・北郷格郎大佐(山三四七五部隊長)に面会した。また、鈴木中隊指揮班の上池准尉、川本曹長(いずれも四国出身)橘小隊の森本上等兵(函館)抽原上等兵(芽室)の生存も確認した。
橘少尉は、タバコやかん詰めをいっぱいもらい、みんなが心配して待っている陣地へジープで送りかえされた。
少尉の話をきいた六人は、それぞれ手分けして生存している日本兵をさがしだし、夜じゆうかかって戦闘を終えるよう説得した。
翌日、四十数人の日本兵は武装解除をうけ、石川収容所にはいった。
橘少尉は、収容人員中に、鈴木中隊の者が意外にすくないことを知った。
〈みんなは、まだ、なにも知らずにドウクツ内にたてこもり不自由な生活をしているにちがいない。戦争は終わったのだ。かわいそうに、助けてやろう〉
すぐ宣撫班に参加した。思い出もなまなましい戦場―八重瀬岳から与座岳一帯にわたって、宣撫行をつづけた。
努力のかいがあって数十人を助け出すことができた。しかし少尉の胸を重苦しくしたのはこれら収容者中にも、鈴木中隊の者はひとりもいなかったことだ。
〈戦死したんだ。みんな肉弾となって国のため、同胞のために死んでゆかれたのだ・・・〉
からだのなかを、冷たい風が吹きぬけるようなさびしさに少尉は、石のように立ちつくして、いつまでも戦友たちのめい福を祈りつづけた。
記者は、ことし一月二十六日釧路駅前釧正館で、橘政雄さんが、上士幌町○〇の満山凱丈さん(山三四七六部隊)と十九年ぶりの感激の握手をかわす場にいあわせた。
満山さんは宣撫班の橘さんから終戦を教えられ、救助されたひとりだった。奇遇をよろこびあい、満山さんが命の恩人・橘さんにあらためてお礼をいうと橘さんは目をしばたたいて涙をこらえていた。
また、そこには標茶町○〇の及川英考さんがいた。彼は昭和十七年五月、旭川北部第六部隊松家利男大尉(札幌市南○〇病院長)の第二内務班に入隊、記者とは戦友だった。
「はげしい戦闘で、大砲がどろにうまって・・・だが、みんなよく戦いました・・・」
〈現役兵の私が行かず、補充兵のあなたがたが・・・〉
記者は、とつとつと語る及川さんのことばに耳をかたむけながら、その日やけした細長い顔のうえに、もう一つ、胸中にうかぶ崇高な顔をダブラせて見ていた。
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