205白骨の行列 一瞬、立ちつくす 道路の両側にびっしり

 菖蒲(あやめ)正美さん(三石郡三石町○〇)は、平野大隊の指揮班所属の伍長だったが、同大隊が六月十七日まで活躍できたのは兵器係酒井伍長(函館に生存)の勇敢沈着な活動によるものである―とのべている。

 五月二十八日、日本軍司令部は豪雨のなかを首里から南部へ後退した。順序は軍司令部、師団司令部、各部隊とつづき、歩兵第二十二連隊(山三四七四部隊)は各部隊の最後、その最後尾が平野大隊だった。

 出発は午前零時。あやめ伍長ら三人は、二時間あとの午前二時出発せよ―と命令をうけた。弾薬は全部おいてゆくことにきまる。

 午前零時定刻に平野少佐が四、五人の兵隊をつれて出発した。

 残ったのは、あやめ伍長、斎藤経理軍曹(暁兵団から配属できていた)寺田兵長ほかひとりの四人。ひとやすみしよう―と四人は墓場のなかで横になり、ねむった。

 斎藤軍曹におこされ、小銃一丁は寺田兵長、手りゆう弾七発をわけてもち、敵にあったら手りゆう弾を全部使い、青酸カリで自決しよう―と話しあう。

 さきに戦死した竹浜軍曹ら三、四人の戦友に無言の別れをつげ、食糧として、畑から小さなサツマ芋を三つ四つひろってポケットにいれる。

 敵の目をさけて後退し、軍司令部経理部のゴウにつく。奥がふかい。四人は奥へはいり、夕方までねむった。またイモを三つ四つとサトウキビ一本をひろい、ここから南下、後退をはじめる。

 照明弾は散発的にしかあがらない。斎藤軍曹が地形、道路をよく知っていた。案内されて東風平部落へつく。

 山のなかに野戦病院のゴウがあるときき、のぼり口まで進んで、ギクッと足をとめた。

 あたり一面の白骨、民家の石垣や立木によりかかっている白骨もあれば、草のなかにねているのも白骨。東風平から真壁部落へつながる道路の両側が、びっしり、声のない白骨の行列。月にてらされ、死臭はそれほどしない。

 あやめ伍長は、息をのんだ。

(病院ゴウから出て、島尻へ後退の途中、力つきたのだろう。地獄というものが、この世にあるとすれば、こういう光景だろう)

 伍長らは、死の世界を駆けぬける思いで南下し、野戦重砲の陣地あとへついた。ゴウの外に平野大隊長が立って、四人を出迎えてくれた。

 その夜はゴウ内であかした。つぎの日の午後、伍長は戦車のキヤタピラの音を耳にした。山へのぼってみると、東風平部落へブルドーザーが五台、道路上の白骨を処置していた。

〈勝ち戦だったら、神や仏にまつられるのに、ブルでゴミのように清掃されるとは・・・〉

 無念さに涙のでる思いだった。

 野砲のゴウから湊川へゆく道路のゴウへ移った。そこに、二度と会えるとは思わなかった戦友たちがいた。

 大隊砲小隊長武藤少尉(函館)本田曹長、機関銃中隊の片足を失った曹長らであった。一同、手をとりあってよろこぶ。

 このゴウには、めずらしく米二表、白砂糖三袋があった。そのうえ敵の迫撃砲弾もなく観測機も飛んでこない。

 玄米だがめしをたく。おかずは白砂糖。宇栄田を出陣して以来、はじめての米のめしに、あやめ伍長らは、うまいうまいとたらふくたべた。残った玄米めしは、あすにそなえて握りめしにした。

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