あやめ伍長らは、この切り込み隊に参加しなかった。手記に理由はかいてないが、武器をもたなかったし、所属を異にする部隊にまじって戦闘することに安心感がもてなかったからではなかろうか?
別の手記には、軍隊内における矛盾、不公平、不合理がのべられてある。軍隊にたいし不信感をいだいたことも事実だ。
世に不平家は多い。しかし、あやめ伍長のまじめな誠実な人柄については田中松太郎曹長(札幌郡広島村)も激賞している。従ってあやめ伍長のつぎの手記は、たんなる不平、不満ではなく、当時の帝国陸軍の赤裸々な一面を記録するものとして価値あるものと思う。
(こんなことは、沖縄戦記には、書くべきではないでしよう。でも、現代社会にも適合していることもあると思いますので・・・と前書きがある)
弾雨をあびている時の生理現象は切実の問題だ。満足な食事をとっていないのだから、毎日排便があるわけでないが、時たまもよおしてくることがある。外はタマの雨。至近弾は音がない。用便中直撃弾をうけ、一片の肉片も残さず死んでいった戦友が二、三人いた。
そこで、ゴウの入り口で用をたし、のち、エンピで外へなげる。ところが、入り口といえども安全ではない。砲弾片は、ゴウのつくり方にもよるが、三メートルは飛びこんでくる。
将校、下士官のなかには、ゴウの奥で大小便をし、兵にかたづけさせていた者がいた。困ったことに、これらの者たちは、平時においては優秀な将校、下士官であり、上官におべっかを使い、兵には天皇陛下の命により・・・を連発、自分の立身のためなら、兵がいくら苦労してもいっこう意にかいさない者たちであった。
こんな中隊長、小隊長、分隊長は、兵の先頭にたって戦闘するのではなく、兵隊のうしろについて進む。そのうえ、いよいよ肉弾戦になると、ゴウの奥にはいりこみ、兵隊には、まるで気違いのように「出れッ!出れッ!」とどなりつづけ、奥にとじこもったままだ。
平時は、兵に敬礼が悪い―軍人精神がたるんでいる―といばりちらしていた者が、この態度である。
敗色歴然たる戦況下にあっていつのまにか階級による指揮ではなくなり、状況を的確に判断し、これに対処できる者が第一線のリーダーに推され、みんなが集まってしまう。動物の自衛本能なのだろう。
ゴウの奥にかくれた指揮者には、だれも食糧、水を運んでゆかない。彼等は、いつの間にか戦線を離脱して消えてゆく。
これと反対に勇壮な将校のタイプは、平時はおとなしく、責任感の強い人である。
つぎの例は、いささか血気の勇にはしりすぎているが、いくじなしの指揮官よりはいい。
四月十三日、棚原のゴウにM4戦車二台が近づき、五十メートルほどのところから入り口に機銃弾の猛射をあびせかけた。抜刀した少尉二人が、ゴウの奥から「どけ、どけッ!」と兵をかきわけて、入り口に出てきた。
「こんなことでは、われわれは全滅だ。俺につづけッ!」
とめる間もなく、二人は戦車めがけ三メートルほど走って倒れた。夜になっても、兵たちとあやめ伍長が、ふたりの将校の遺体に土をかけに行ってみると、からだじゆうにタマをうけ穴だらけになっていた。ふたりは勇敢であった。が、兵は、だれもあとにつづかなかった。
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