213米軍司令官戦死 復しゅうか、猛攻続く ゴウ伝いに必死の移動

 一分間―いや二分間ぐらいであったかもしれない。うずまく炎が消えた。ふとんから頭をだす。重油くさい煙で、ゴウ内はいっぱい。撫養兵長は、ゴウの奥へ進んだ。みんなは煙にむせび、苦しんでいた。しかし死傷者がなかったのは、さいわいだった。

 かねてから山腹のゴウに監視兵二人をだし、敵情に注意していた。その報告によると、米軍の主力が、首里をめざして猛進撃した。トラックが物資を積んでいる―という。

 この報告を裏書きするように首里の友軍砲兵陣地から砲声がひびかなくなり、軍司令部の応戦も不活発になった。

 米軍は南下し、経塚部落のゴウにとじこもる撫養兵長ら敗残兵に対する攻撃も弱くなった。

 ゴウ内に無線機があった。日本語で米軍の進撃状況が放送される。デマ放送だから信じてはいけない―といわれていたが、米軍側から見た日本軍の死にものぐるいの戦闘ぶりも、正確に放送するので、信じないわけにはいかなかった。

 そのうちに、米軍は真栄里部落へ向かい進撃していることを放送した。すでに沖縄は八分どおり米軍に占領されているようだった。

 間もなく米第十軍司令官シモン・ボリバー・バックナー中将戦死―のニユースが放送された。(バ中将の戦死は六月十八日、島尻郡高嶺村真栄里部落で、日本軍の砲弾片による)みんな大喜び―ところが、米軍は、復しゆう的な執ようさで攻撃をかけてきた。撫養兵長らのいるゴウも、たびたび襲撃されるので、前田部落のゴウへ移動した。日本軍が米をたくわえていたゴウだ。爆雷でひどく破壊されてはいるが、米は残っていた。

 一同で入り口に米袋をつみあげる。

〈かえって、こんな荒れたゴウなら安全かもしれぬ〉

 そう思った。移って二日目、撫養兵長が入り口の歩哨に立った。しのびよってくる敵兵を発見。敵は、いきなり爆雷を投げこんだ。奥の戦友に知らせようと、兵長が走りだしたとたん、爆雷がサク裂、二人が戦死し、兵長は十メートルくらい飛ばされた。

 つづいて黄りん弾が投げこまれた。煙をすいこみ、みんなころげまわってくるしむ。兵長は爆風のため耳も目もだめだ。夜になるのを待ち、またゴウをかわる。河野(室蘭)佐藤良治(三笠)両上等兵が、同じ道産子のよしみで、兵長の手をひいてくれる。移動先はかん詰めゴウの横のゴウ。ここに三日ひそむ。

 兵長は耳が片方聞こえるようになり、目もうすく見えるようになった。

 四日目―敵戦車が攻めてきた。兵長らがここにいることを知ったらしい。入り口をふさぎはじめた。呼吸が苦しくなる。酸素がなくなり、マッチの火もつかない。呼吸をするのがくるしい。みんな油汗をかき、肩で息をしていた。

 敵戦車が、引きあげてゆく。それを見すまし、ふさがれた入り口を手で掘る。夢中で掘りつづける。数分後、小さな口が開き、外気が流れ込んでくる。一同は胸いっぱい空気を吸った。このゴウにもながくはいられなかった。

 その夜、経塚の病院ゴウを思い出し、移動を開始した。ゴウにつき、一歩踏みこんで、ギヨッとした。

 土間一面の戦死体―五、六十人のくさった戦死体からの悪臭で胸がわるくなる。ところが、そのなかにたったひとり生きている負傷兵がいた。

「軍医は、敵が攻めてくると同時に、われわれを残して後退し、私は、みんなが死んでゆくのに死ねないで生きていました・・・」

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