256雨宮師団長 ガソリンでむし焼き 静かに自決の時を待つ

 ドウクツの入り口へ流れこんだ火炎放射の火が、逆流して外へふき出しているのが見える。加藤伍長は胸が痛んだ。

〈西沢(勇雄大佐・山形出身)連隊長殿はじめ本部要員たちは、どんなに苦しいだろう・・・〉

 戦車は、思う存分焼きつくし、やがて、去っていった。(西沢部隊長は、戦争後半から高熱になやまされていたが、最後には、つきそいの看護婦長が石炭酸注射をうち婦長も注射で自決した―と後日、加藤さんは聞いた)

 米兵たちが口笛をふいたり、ガヤガヤいいながらやってきた。上半身はだかで、銃をかかえガムをかんでいる。ゴウを見つけると、なかへピストルを発射する。それを見て、沖縄娘が、ふるえだした。

〈もうだめだ。このゴウはせますぎる。三人とも殺される〉

 ゴウの入り口よりも内側は、左右にひろがっていた。壁にピッタリ背中をくっつけていれば、そとからは見えないかもしれなかった。伍長らは、ムシロをひざにかけ、腰から上を壁にくっつけた。手りゆう弾の安全ピンをぬき、発見された場合の自決の用意をした。

 米兵の足音が近づく。ガサッと、入り口に米兵の手がかかった。伍長の顔から三十センチとはなれていない。米兵の指先きをにらんでいた。息づまる瞬間―わずか数秒間が、ながい時間に感じられた。米兵は、どうしたのか、そのまま去っていった。

 命びろいした三人は、夜をまってこのゴウを出た。摩文仁文仁と新垣の中間に平地がある。その平地に鍾乳ドウのドウクツがあって一個部隊くらいはいれる広さをもっていた。(宇江城部落のドウクツで、いま山雨の塔が建っている)

 三人は、このドウクツにはいった。山兵団の師団司令部も移動してきていた。加藤伍長らは一週間ほどここにいた。米軍は、日本軍の最後の抵抗線とみて、連日、攻撃と宣撫をくりかえす。

「雨宮師団長!出てきなさい。○○中尉や××軍曹もでてきています!」

 入り口近くにいる兵隊は、その声をきいて、ドウクツの奥にいる者に伝えた。日本軍は応じなかった。米軍はドウクツの上から穴をあけようと作業を三日続けたが、それも中止、つぎには、三カ所ある入り口の一つに土をはこんでふさいだ。一方の入り口からガソリンを流し火をつけた。ゴウ内には風が吹いていて、風下にいた者は煙で死んだ。

 同じことを三日くりかえした。病人や負傷兵は自決したが、風上にいた加藤伍長は生きのび、元気のいい者は夜、外へでて行った。伍長が出口へ進む途中、ローソクを真んなかに、四、五人の将校が車座にすわっているのを見た。直感的に山兵団の師団長と幕僚を感じた。片手にピストルをにぎり、片手で頭をささえてうつむいている。だれもものをいうものもなく、ただ、ローソクの光りだけがユラユラゆれている。

〈おそらく自決寸前なのだろう〉

 わきみして歩いていた伍長は、なにかにつまずいた。日本刀だった。武器ひとつ持っていない自分を考え、だれのものとも知れぬその日本刀をひろいあげ、外へでた。ひさしぶりに吸う外気のうまさ―伍長は生きるよろこびを感じた。(雨宮師団長の自決は六月三十日。なお日本刀は、加藤伍長が米軍に収容された時とりあげられた。)

沖縄戦跡慰霊巡拜団の中島正吉さん(札幌南○○永岡方)は十二月五日朝、沖縄の海に花束をささげ、なき戦友、特攻隊員のめい福を祈った。

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