戦記のはじまった四月上旬、小樽市○○もと山一二○七部隊軍曹の村上友之助さんから
「あゝ沖縄に資料を提供したいが、沖縄戦でうけた左眼底の負傷が悪性のガンとなり、医者に頭へのぼると禁じられているので戦記を執筆できない。取材にきてほしい」
との手紙をうけた。当時、記者は連日、遺族の涙の訪問や、問い合わせの電話の連続で昼間の執筆は不能、夜、自宅へ帰ってからやっと書いている有様だったので、行けない、あるだけの資料を送ってほしい―と返事した。その時の心のなかには、
〈戦後二十年もたったいま、急に戦傷が悪化するのはおかしい。オーバーな宣伝屋なのではないだろうか?〉
未見の村上さんに対し、不信感をいだいた。その後、資料が送られてき、村上さんも、りよ夫人同伴で小樽市立病院に入院することになった―とあいさつに来社された。一時間ほどの会見で村上さんのすなおな人柄に接し、不信感を消した。
りよ夫人から村上さん危篤のはがきを受けとったのは八月二十一日。すぐ、村上さんの手記と同部隊の苫小牧市○○の藤沢克巳さんの手記をのせた(百四十三回から百五十九回)
十月一日、記者は十日間にわたる小樽出張を命ぜられた。すぐ小樽病院に村上さんをたずねた。もう、十五日以上も危篤状態がつづいているとのことで、親類縁者がつめかけ、村上さんは酸素吸入と注射でやっと生きつづけていた。手足はひとにぎりほどにやせこけ、あごが動かなくなっていた。声が出せない。食事もとれない。奥さんが記者の来訪をつげると、細い手で記者の手をにぎりしめ、やっと聞きとれる声で、うれしそうに
「よくやってくれました。苫小牧の藤沢君も、ほんとうによかった…」
衰弱しはてているのに、よろこびにあふれた、いきいきした声であった。付き添いのおかあさん、奥さん、妹さんらは徹夜つづきの看病でつかれていた。記者はその夜、村上さんのくちびるをぬらし、酸素ボンベを見つめ病室で一夜をあかした。
朝、村上さんは奥さんに
「かあさん、清水さんにビールとごはんをあげてください」
といった。奥さんがしたくをはじめた。医者は、村上さんにビールをのませてもいいといっていると聞き、記者は朝のまちへ走り、ビールを二本買ってきた。スイノミ器にビールを入れ、村上さんにのませ、記者もコップでのんだ。
「ああ、うまい…僕も元気になって、沖縄の戦友の遺族のために働くよ」
鼻の穴に酸素吸入をしたまま口へ、記者はスイノミ器のビールを何度も流しこんだ。そして、村上さんが早く全快するようはげました。
〈村上さんは、もう助からない。沖縄戦最後の戦死者と、いま自分はビールをくみかわしている。村上さん、どうか、みなさんによろしくお伝えください…〉
記者は、自分の好物のタバコも村上さんにすわせてあげたかった。村上さんにきくと、のむという。火をつけてくわえさせようとしたが、あごがだめだ。タバコを胸いっぱいすいこんだ。村上さんの口に近づけ、静かにふきこんであげた。
「ああ、うまい…ああ、うまい…ありがとう、清水さん、ありがとう…」
村上さんの感謝の声と、奥さんの泣き声がきこえた。村上さんは、十一月七日午前九時なくなられた。
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