山三四七五部隊は、四月二十三日午前九時、出撃命令をうけ、島尻郡照屋部落の草ぶき兵舎を午後十時出発した。
第一大隊(長・伊東孝一大尉)第一機関銃中隊(長・岸富雄中尉)の第一小隊長蔭山俊雄少尉(札幌)は敵弾のこない岩かげに小隊の全員を集め、最後の訓示を行なった。それは、力のこもった声で、たった一言。
「お前たちの一命は、俺があずかる」
蔭山少尉のするどいまなざし。それとは、まったくうらはらに、口元には、かすかなほほえみがうかんでいる。笹島繁勝兵長(浦河町〇〇)は、異様な感にうたれ、重大な時期が迫ったことを直感した。
部隊は敵弾のなかを北上した。国場川にかかる一日橋の近くまできたとき、集中砲火を浴びた。二十メートルほど前方から、人事係の稲葉信男准尉と小野昌司曹長(函館)がやられた―という声が伝わってきた。笹島兵長は看護にかけつけたかった。だが、砲弾が激しくて近寄れない。くぼ地にはいって伏せた。そばの兵隊が、准尉と曹長の負傷した時の状況を話してくれた。
「稲葉准尉は、腹に貫通銃創をうけた。小野曹長は、右足を吹き飛ばされた。二人とも助からないだろう。ひどい重傷だ。それなのに、図ノウ、図ノウと重要書類をいれた図ノウのことばかり心配していた」ということだった。
准尉と曹長は、病院へ後送される途中、息をひきとった―ということを、笹島兵長はあとで聞いた。
部隊は、二十四日午前四時、一日橋付近に横穴を掘り、偽装網を張って、陣地を造った。午前零時を期し、さらに前進する予定である。日中は、横穴にとじこもり、敵弾をさけた。
二十五日午前零時、首里東北二キロの小波津部落に向かって前進を開始した。雨が降りだし、午後六時ごろ全員がずぶぬれで、目的地に到着した。
小波津の到着地点は、山のなかで、陣地らしいものはなかった。第一機関銃中隊は沖縄の墓を中隊本部とし、第二中隊(長・大山昇一中尉)の攻撃を援護するため、小波津山から米軍に射撃を浴せた。
米軍の進撃は優勢だった。第二中隊は、敵の攻撃をうけ、みるみるうちに全滅状態に追いこまれた。網谷重信一等兵(札幌豊平)が、第一大隊本部と第二中隊間の連絡にあたっていたが、笹島兵長の目の前で倒れた。
「網谷、しっかりせい!」
兵長がかけよると、網谷一等兵は、うめきながらも、力のこもった声で
「くやしい・・・やられた・・・」
と、血の気のない顔で答えた。抱きあげると、右モモに砲弾の破片をうけ、足がちぎれそうになっている。
〈この重傷では、助からない〉
そう思いながらも、笹島兵長は、網谷一等兵のからだを抱きかかえ「網谷、元気を出せ、俺が手当てをしてやるぞ」
と、はげました。網谷一等兵は、涙をうかべた目で、じっと兵長の顔を見つめ
「大じようぶです」
と元気よく答えた。笹島兵長は、仮包帯をしてやった。網谷一等兵は野戦病院へ後送された。
その後、網谷一等兵は〝中隊長に贈る〟といい、
〝勝ってくるぞと勇ましく ちかって国を出たからは
手柄たてずに帰らりよか・・・〟
〝進軍ラッパきくたびにまぶたにうかぶ・・・〟
と軍歌の一節を歌いながら息をひきとった―ということである。
山三四七五部隊第一大隊第一機関銃中隊の編成(笹島繁勝さん=日高浦河郡浦河町〇〇=の調査、敬称略)①▽中隊長岸富雄(山形県出身・五月七日棚原で戦死)▽小隊長蔭山俊雄(札幌・五月四日平良町付近一四六高地)▽人事係稲葉信男(山形市〇〇・四月二十三日津嘉山)小野昌司(函館市〇〇前に同じ)佐藤政夫(長野県・五月六日照屋)勝田勉(札幌・五月四日一四六高地)万年昇(札幌・五月六日棚原)後藤健一(三笠市)・六月二十九日照屋)池田健也(札幌北〇〇五月二十八日照屋)大久忠(伊達町〇〇六月二十七日座波)中川清水(厚田村〇〇四月二十九日小波津)宇井利雄(白老町〇〇五月三日一四六高地)青山清秋(虻田町〇〇五月七日棚原)遊佐夏生(夕張市〇〇五月十九日一四○高地)清野孝二(伊達町〇〇五月○日野戦病院)鈴木喜代治(月形町字〇〇六月十七日国吉)高田鉄太郎(日高・五月十三日平良町)石川修(室蘭市〇〇五月七日棚原)伊東喜代造(門別町〇〇五月十九日一四○高地)林秋良(恵庭町・六月○日照屋)奥田竹松(深川市〇〇六月二十七日座波)奥川弥一(岩見沢市〇〇五月○日野戦病院)片山清(深川市〇〇五月十九日一四○高地)勝見利司(札幌市南〇〇六月九日照屋)吉岡力(芦別市〇〇四月二十八日小波津)=つづく=
沖縄戦・きょうの暦
6月8日
米軍、真栄里から国吉へ進む。
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