五月一日。山三四七五部隊第二大隊(長・志村常夫少佐)第七中隊(長・太田中尉)に出撃命令が下命された。太田中隊は、喜屋武に近い南端の山城部落(やまぐすく)に駐とんしていた。
夜七時、中隊の第三小隊(長・佐藤准尉)の隊員一同は、ごう内に集合、小隊長から緊張した口調で命令を伝達された。きようか、あすかと、米軍上陸以来一カ月間、毎日気になっていた出撃命令を伝えられると、兵隊は、声もなくだまりこんだ。
沖縄の地酒泡盛(あわもり)が、各兵の飯ごうのふたにつがれる。灯油の薄ぐらい明りのなかで、出陣の祝い酒・泡盛をのどへ流しこむ。口からのど、胃にかけてしみるような酒のほてり。生まれてはじめて、戦闘を経験しようとする篠原正澄兵長(常呂郡端野町〇〇)には、緊迫したあたりの空気が、息ぐるしく感じられた。やがて、士気をふるいたたせる軍歌が、声高らかに歌われた。篠原兵長は、合唱しながらかすかな哀愁が歌声にただよっているのを感じた。
戦闘用の食糧、弾薬が支給される。演習の時とは違い、背負い袋には、とても、はいりきらない。やむなく背負い子を作り、これで背負ってゆくことになった。
「おたがいの健闘を祈る」
小隊長の訓示があって、小隊は、山城部落をあとに首里前線へ出発した。
荷物が重く、肩にめり込む。艦砲弾のたえまないサク裂。そして、照明弾。どこからともなく死臭がただよう。見れば馬の死体だ。行軍は砲弾のあいだをぬって続けられ、小休止ともなれば、ところかまわず腰をおろして休んだ。しきりに砲弾がサク裂する。さいわい死傷者は出なかった。
行軍は、夜間しかできない。昼は洞穴にはいってかくれ、夕やみを待って行軍した。山城部落をでて、三日目(五月三日)に首里に到着した。まちは砲弾ですっかり破壊されていた。さらに四キロ北上して停止を命ぜられた。ここが、前田高地だという。
すぐ、戦闘態勢にはいるため、軽装を命ぜられた。軍靴を地下タビにはきかえる。雑のうに乾パンと弾薬をつめた。帯革(バンド)に手リユウ弾をしばりつける。
軍装をととのえている間じゆう、カサ、カサ・・・シユル、シユル・・・と頭上に、ききなれぬ物音がしていた。風が、クマザサを吹きわたるような音。それが頭上を越え、後方でカメでもたたきわるような大きな音をひびかせる。これが、米軍の迫撃砲弾の飛びさる音と、サク裂する音であることを、篠原兵長が知ったのは、数日後戦場になれてからだった。
日本軍は、米軍の艦砲と戦車と、この迫撃砲弾には、最初から最後まで悩まされた。
午前零時ころ、火をかくして、たばこをすうことをゆるされる。
〈敵陣は、すぐ目前だな?〉
篠原兵長は、たばこをふかしながら、これからの戦闘を決意した。照明弾が上がった。昼のように明るい。全員落ち葉のように地に伏せる。やがて、ふたたびくらくなり、行動開始の命令。
第三小隊は、沢をくだって敵陣を攻撃することになり、中途までさがった。ふいに敵の一斉射撃をうけた。全員、無我夢中でころがりおりて散開、篠原兵長は、自分の右側十メートルほどはなれて石橋上等兵(苫小牧)が盛んに軽機関銃を撃ちまくっているのを見た。
「小隊長殿が、やられたッ!」
だれかが叫ぶ。左となりでは関上等兵が軽機で応戦。三回ほど発射したとき、その何十倍もの猛烈な敵弾が飛んできた。関上等兵と前田上等兵(室蘭)が目の前で戦死。
篠原兵長は、敵弾のあい間をみはからい、五メートルほどほふく前進し、水田のアゼにかくれた。照明弾は昼のように明るい。真ッ赤になって曳光弾が飛んでくる。〈アゼも、敵弾に飛ばされてしまうかもしれない?〉敵弾が激しく、死の不安におそわれる。兵長は身動きできなかった。
間もなく、敵の射撃がやんだ。〈戦友たちはどうなったろう?〉
前進しようとして、銃を頭の上に出したとたん、ポロリと、銃をとり落とした。右腕がしびれて痛い。見ると、右前腕をやられている。前進を思いとどまり、その場に伏せた。
後方から、後退せッーと叫ぶ声。兵長は、左手に銃を持ち、夢中で走り、砲弾の穴にすべり込んだ。穴の中に阿部軍曹(室蘭市〇〇)が、右手で水筒をつかんで死んでいた。篠原兵長は、阿部軍曹の水筒をとり、せんをぬいて軍曹の口にあてがった。
〈軍曹殿、お別れの水です。たくさん飲んでください〉
兵長は軍曹のめい福を祈り、最初の出発地点へかけ戻った。
この戦闘は、ほんの四十分間くらいのものだった。ところが、太田中隊長はじめ戦死者は多数にのぼり、総員八十人の第三小隊の生存者が八人というありさまだった。第一小隊の関川上等兵(室蘭)は、敵弾を口にうけ、歯を全部やられ、血だらけの顔で痛がっていた。
沖縄戦・きょうの暦
6月11日
バックナー米司令官、日本軍司令官に無条件降伏を要求。
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