五月三日。第一線に対し、昼間、重砲のえんご砲撃が行なわれるという情報が、前田一四六高地で苦戦中の志村大隊(七五部隊第二大隊)にはいった。兵隊は生気をとりもどし戦闘を中断して、いまかいまかと友軍重砲隊の砲撃を待った。重みのあるサク裂音が、一発、二発・・・敵陣方向からひびいてきた。四、五発つづきピタッとやんだ。耳をすます兵隊の顔に不審のかげがうかぶ。
「どうしたんだろう?」
「おかしいなあ・・・」
それきり、重砲のサク裂音はとだえてしまった。兵隊は元気をうしなった。上空には、きようも、友軍機は一機もいない。米軍機がわがもの顔に空襲を続行している。
突然、日原歩兵砲小隊は、背後から敵の砲撃をうけた。米軍は、一四六高地の北方にいるものとばかり思いこんでいた小隊員は、あわて、とまどい、戦局がわからなくなってしまった。「志村大隊は、一四六高地を死守せよ」
部隊本部からの命令。陣地北方の米軍は、戦車を先頭に、火炎放射器で一面を焼きはらいながら進入してくる。戦車のかげには、米歩兵がつづく。タコツボ内の戦車爆雷攻撃班も、これには、手も足もでない。
みるみるうちに、米軍は、一四六高地頂上に迫った。歩兵砲を撃ちまくっていた斉藤正夫上等兵が重傷をおう。
「水・・・水をくれ・・・」
叫けびつづけるが、水がない。かわりの兵が砲側につく。たちまち戦死。つぎの兵も。そのつぎも・・・砲側が死体でうずまる。タマのあるかぎり、砲手をかえて砲撃を続ける。から薬きようと戦死体と火薬のにおいでいっぱいになる。
やがて、全弾を撃ちつくした。歩兵砲日原小隊の武器は、小銃数丁と手リユウ弾だけ。
米軍は、日本軍陣地の五十メートルくらいまで迫ってきて、手リユウ弾を投げこむ。彼我のすさまじい手リユウ弾戦がつづく。
重機関銃射手も、つぎつぎに戦死傷者がでた。ごうのなかは第二大隊の負傷者で満員。負傷者が息をひきとると、そのうえに、あたらしい負傷兵をのせる。大勢の絶叫、うめきにまじって。
「まだ、友軍機はこないのか?」
重傷に苦しみながらも、負傷兵たちは友軍機の飛来を待望しつづけた。つぎからつぎと運ばれてくる負傷兵で、ごう内の地面には、わき水のように一面に負傷者から流れ出た血がたまっている。
日がくれた。日原小隊長は小隊最後の突撃を敢行する―という。戦える者に集合がかかった。沖縄出身の初年兵もまじえ三十人ほどが小隊長指揮のもとに、ごうを出てゆくのを、左腕を負傷し、からだにしばりつけた撫養兵長ら負傷兵が見送った。
一四六高地でどのような戦闘が行なわれたかは、撫養兵長は見ていない。しかし、その激しさは、つぎの戦死者や負傷兵の姿からも想像できる。
山谷義知軍曹(札幌)=撫養兵長ら二年兵の満州時代からの内務班長で、兵隊の信頼を一身に集めていた。この戦闘で、数弾をうけて戦死。
渡辺久曹長(紋別〇〇)=どんな苦境にあっても、冗談をいい、みんなを笑わせていた。手リユウ弾で戦死。
谷藤公道軍曹(小樽)=指揮班の下士官で、三月二十五日以来、撫養兵長と伝令の任務についていた。手リユウ弾で戦死。
林四郎伍長(帯広)=弾薬班長。頭に重傷をうけ、河野光雄上等兵(登別町〇〇現富士鉄勤務)が、ごう内に運びいれたが戦死。
中原博伍長(勇払郡追分)=親友吉田長太郎兵長のかたきをとる―と絶叫、手リユウ弾を投げていたが、敵の手リユウ弾で戦死。
高橋禛上等兵(札幌)は、頭に手リユウ弾の破片をうけ、全身血まみれになって、ごうに帰ってきた。撫養兵長が血をふいてみると、前頭部に、穴があき血がふきでている。カンパンのあき袋数枚をまるめて穴に押しこみ、包帯をした。日原小隊長は、拳銃で敵兵とわたりあい、全身に六発の敵弾をうけて戻ってきた。ほかに負傷者は佐藤良治上等兵(新幌内炭鉱勤務)久保良雄一等兵(雨竜郡秩父別)福島安夫一等兵(日高)など十数人。
撫養兵長が照明弾のあかりで外をみると、高地のうえや陣地のまわりには、戦死体が積みかさなっている。志村大隊二千余人は、いまや、無傷の者は十数人になっていた。そのなかから谷栄兵長(奈井江)佐々木栄兵長(下湧別)が伝令にえらばれ部隊本部へ走った。
沖縄戦・きょうの暦
6月15日
米軍、八重瀬岳に前進。
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