よく日(四月二十日)朝から砲爆撃をうけた。だが、安謝、内間(うちま)銘苅(めかる)付近には、敵兵の姿は見えなかった。部落民が七、八人、大きな南京袋をかついでやってきた。私(志田)は思わずどなりつけた。
「あぶないぞ!明るい時に、そんなものを持ってくるやつがあるかッ、敵に見つかったら、みなごろしになるぞ、早くはいれッ」
洞(どう)穴にはいった彼等は汗をびっしょりかいていた。私は、何をかついでいるのか―とたずねた。
「兵隊さん、これ砂糖です。安謝部落の前のブタノール工場から持ってきました。まだ、たくさんありますよ。だが、これだけあれば、しばらく食べられます」という。
ブタノール工場は、日本の海軍省が管理し、砂糖から航空燃料を作っていた。倉庫が十むねあったが、一週間ほど前に爆撃をうけ、いまだに燃えつづけていた。
夜になり、私が傷の手当てをうけていると、大槻兵長(室蘭)と北畠上等兵、半沢上等兵(いずれも本道出身)が、足をひきずってはいってきた。
彼等の話によると、塚谷軍曹が、私がここにおり、衛生兵もいるから行くようにと軍医に話をしてくれたのだそうだ。
「ああ、腹がへった。何か食べるものはないか?」
北畠上等兵がいう。なにもないので、部落の人に、めしをたいてもらうことになった。火を燃やすと、煙がでて敵に発見される。そこで太いロウソクを二十本くらいたばねて燃料にした。白米がないので玄米、これにしようゆをいれた。「うまい」私をはじめみんなで夢中になってたべた。
四月二十三日、米軍が安謝部落付近にあらわれた。そのコースは、勢理客(せりきやぐ)部落から県道をとおり、安謝川を渡って、ブタノール工場付近に出てきたものである。
洞穴内の軽傷者約二十人は戦闘配備についた。ほかに部落民が百五、六十人。こちらの武器は小銃と一丁の軽機関銃だけ。敵はM4戦車四、五台、一台の戦車に歩兵が十五、六人ついている。百メートルほど前まで迫った戦車機関銃の猛烈な援護射撃開始。米兵は、すばやく戦車の側面にとりつけてある鋼鉄板をはずした。戦車の両側にならべ、鉄板にあけてある銃眼からソ撃をはじめる。この敵軍にたいし銘苅部落付近の友軍が攻撃を開始した。たちまち米兵七、八人が倒れる。私は「やった!」と心で叫んだが、つぎの瞬間、戦車砲が火をふき、友軍陣地が砲撃をあびた。上空からは、陸、海軍機が、私たちのいる洞穴陣地を爆撃する。こちらは、ただ見ているだけだった。
航空機が落下さんをいくつも落とした。黄、白、緑のかさがいりまじり、はでなながめだ。黄色の落下さんは弾薬箱、白は細長いジユラルミン製の水槽タンク、緑は食糧なのだが、手持ちの武器では、これらの武器を横取りするのはむずかしい。
私は腕時計を見た。午後一時になるところだ。「あと、三時間か・・・早く午後四時になればいい」
米軍はサラリーマンのように朝は八時に攻撃を開始し、午後四時には戦闘を中止して五十メートルくらい後退、そこに、第一線陣地をかまえて夜営する。そこをねらえば、食糧、弾薬をぬすみ出すことも不可能ではなかった。
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