097摩文仁陣地 水平線に大艦隊 3月20日死ねばいいの闘魂

 四月二十八日、山三四七六部隊(長・金山均大佐・歩兵第八十九連隊)第一大隊(長・丸地軍次大尉)第二中隊(長・甘利栄司中尉)に待望の出動命令がくだった。

「第二中隊は、与那原西方、運玉森に出撃せよ」

 第一小隊(長・丸子清雄中尉)第二分隊(長・阿部正雄伍長)の栗山登兵長(札幌市〇〇)は、胸につかえていたものが、スーッとおりたよう、そう快な気持ちになった。

 この部隊の、ここにいたる概況をつづる。

 昭和十九年七月、満州東安から、沖縄中頭郡具志川村到着。同年十一月、島尻郡摩文仁(まぶに)に移動。米軍上陸(二十年四月一日)以来、二十八日間、摩文仁陣地にじっと待機していたのだから、出動と聞いて、栗山兵長の胸のつかえもおりるわけだ。

 摩文仁には山三四七六部隊本部のある東風平(こちんだ)から南へ約六キロ、沖縄島の南端で、二十年六月二十二日午前四時半、牛島、長両中将が、ここで自決した。

 海岸線は高さ約三十メートルの断崖となっており、東は具志頭(ぐしちやん)から西は米須まで、五、六キロにわたってつづいている。

 具志頭の東方・湊川付近と米須西方付近は、ともに砂浜になっていて、米軍の上陸予想地点として、マークされていた。このため、摩文仁の八六高地に、対潜空監視所が設けられていた。監視所のうえから見ると、東は湊川から、その東方の知念半島、西は米須から、その西方の喜屋武(きやん)岬まで、手にとるように見えた。南は海だが、北は、八重瀬岳を中央に、真栄平、真壁、富盛(ともり)仲座、遠く、東風平の各村落を見渡せる地点である。

 十九年十月十日の大空襲以来、米軍機は連日、沖縄上空に現われるようになり、米軍上陸は間近いと、栗山兵長ら道産子部隊は、朝五時から夜は十時ころまで、サンゴ礁の堅い岩石を掘る陣地構築作業にはげんだ。

 二十年三月二十日の早朝、監視所から長谷上等兵(釧路市出身)が、息をきらして走ってきた。甘利中隊長に報告するのをきけば、水平線上に大艦隊が見える―という。栗山兵長は、中隊長が落ちついた態度で、長谷上等兵の労をねぎらい、そう眼鏡を持って台地へ出てゆくのを見た。

 入隊前、横須賀で働いていた兵長は、日本の軍艦のスタイルなら判別できる。すぐ、中隊長のあとにつづいた。

 空には、米軍機の編隊があった。4Uコルセアー艦載戦闘機が、地上すれすれの低空飛行でとんでくる。米空母の姿は見えないが水平線のかげにいることはわかる。

〈日本艦隊ではない〉

 部隊本部から連絡がきた。

「米艦隊は慶良間諸島沖にあって、同諸島を砲撃中」

 栗山兵長は、はっきり米軍来攻を知った。

 よく二十一日は、空にはグラマン、コルセアーの大群、海は米艦隊でぎっしり。

「ついにきたな!」

「よーしッ、見ていろ!」

 不屈の道産子魂は、近代的な米軍の機械化部隊―その大来襲に、どきもをぬかれながらも、ムラムラと戦闘意欲をわきたたせた。

「死ねばいい。くそッ!敗けてたまるか!日清、日露で先輩たちがやっつけたんだ。俺たちだって、やってやれないことがあるもんか!」

 甘利中隊長は、第二中隊に戦闘配備命令を発した。栗山兵長は、道産子たちの燃えあがるような闘魂のウズのなかにあった。

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