これまでの記述は、巨視的な態度をさけ、微視的な形式ですすめてきた。沖縄戦を概念としてではなく、たたかい、死んでゆかれた同胞とともにある臨場感を、読者の肉体で感じとっていただきたかったからである。この形式は、これからも続けたいと思う。
いま、この戦記の進行状態は五月四日の総攻撃にうつる前までに、各部隊は、どんな動きをしたか―を書きすすめている。その全部を書き終えたわけではないが、一応中断し、樫木直吉大尉=山三四七五部隊(長・北郷格郎大佐)第一大隊(長・伊東孝一少佐)副官・札幌市〇〇=からよせられた手記をかかげる。
樫木さんは札鉄電気区々長の職にあるが、記者の沖縄渡航前から資料提供、御指示を与えてくださり、連載中ずうっと、体験者としてのこの戦記を見守っておられたので、記者にとっては正誤表として、読者にとっては事実を解説する文章として貴重な記録である。
沖縄戦は人類最後の戦争であれ―との願いをこめ、心から戦没者二十余万のめい福を祈る。ここに勇気をふるい、わが先輩戦友が、いかに尽忠の精神に燃え、祖国再建のいしずえとなったか―遺家族にその実相を報告申しあげる。
在満関東軍の本土移駐
満州事変、ノモンハン事変後関東軍として精鋭を誇った第十一軍は、満州牡丹江から東安に移った。
軍司令官は山下奉文中将閣下松井譲中将閣下、牛島満中将閣下と代わり、師団長に根本博中将閣下(元七師団旅団長)代わって雨宮巽中将閣下が着任した。
昭和十九年七月、大東亜戦争「い」号作戦の名をもって「山部隊」とよび、七月二十三日、博多に上陸、福岡市内で舎営して待機中、沖縄へ移駐途上の暁部隊主力が、米潜水艦に撃沈された。これに代わって山部隊が八月一日沖縄へ向った。
山部隊の編成は、本戦記第四回のとおりである。
もとは、本州各地の連隊区菅下の出身者で編成されていたが在満部隊であったため、昭和十六年度初年兵からは、北海道出身者を徴集した。昭和十九年度初年兵の第一期検閲が六月にすみ、その直後(沖縄へ)移駐となった。古年兵は四年兵であった。
その間第十一軍からフイリッピン、台湾その他へ、南方派遣部隊を編成して出陣して行ったが、主力部隊は「い」号作戦で初めて動いたのである。
部隊が門司港で乗船中、米軍機の空襲をうけた。埠頭(ふとう)に展開して戦闘態勢を整えたが、米軍機は、友軍高射砲の猛撃をうけ、一時間ほどで退却した。
乗船を再開し、出港後、貨物船は「の」の字運行をつづけ、八月五日午前九時ごろ、全船(三十数隻)沖縄那覇港に入港上陸を開始した。
将兵一同は、埠頭で国防婦人会のお茶、お菓子の接待をうけ満州では、味わうことのできなかった祖国の人情に接した。ひさしぶりに郷愁をみたしたのもつかの間、それぞれ任地への行軍が始まった。
山三四七五部隊は、この日夕方、嘉手納以北の中頭地区に到着、各大隊ごと分散し、天幕で露営しながら陣地構築をはじめた。
連隊本部は喜名付近を中心とする一帯、第一大隊は、伊波、嘉手苅、第二大隊(長・志村常夫少佐)は座波付近。第三大隊(長・満尾亮吉大尉)は楚辺付近。西海岸を敵上陸地点と見込み(その後、事実となった)この方向―北西―へむけて陣地作業に着手した。
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