120樫木大尉の手記(7)夜間機動 砲弾さけては前進 地はだもすっかり変形

 第二梯団は岸富男大尉(山形)を団長に第一中隊(長・斎藤定蔵中尉=山形)と第一機関銃中隊。第三梯団は工藤国雄大尉(秋田)を団長に、第三中隊と連隊砲中隊=一個小隊欠=(長・三好大尉=出身地不明)。

 四月二十二日午後、各隊は、黙々と出動準備をすすめた。不用物の焼却、箱づめ保存。病弱者は、全快しだい追及するよう指示して残置した。

 夕食に、大隊本部付主計・重田中尉(岡山)から出陣祝いの泡盛が各隊にとどけられた。兵隊は、各隊長の訓示をきき、飯ごうのふた一ぱいの泡盛に戦意を固めた。

 夕方より小雨が降りだした。予定時間の二十一時、部隊は出発開始。

 全員そろっての機動は、中頭地区から島尻地区へ移駐した時以来のことだ。

 空襲、艦砲に約一カ月間たたかれ、山も畑も部落も、すっかり形をかえ、地面をえぐった砲弾のあとに、雨水がたまっている。部落はいずれも、煙をあげてくすぶりつづけ、牛馬の死臭が鼻をつく。

 敵は、部隊の機動を察知したらしい。重迫撃砲弾、艦砲弾が前進部隊をねらってサク裂する。兵隊は伏せ、タマが通りすぎるのを待ってふたたび前進開始。たびたび至近弾に見舞われる。馬があぶない。伊東大隊長と樫木副官の乗馬は、満州から一緒に移駐したものだ。川端上等兵(奈井江)と菊地兵長(角田)に、馬あつかいを命ずる。

 第一梯団は、識名東側付近を進んでいた。隊列のなかで迫撃砲弾がサク裂。樫木副官の乗馬が即死する。破片が腹部を貫通していた。その死がいを道路ぎわによせ、胸部を負傷した菊地兵長を後送する。至近弾が、連続的に落下する。とまってはいられない。

 みちを急ぎ目的地の一三九高地西方繁田川橋付近につく。伊東大隊長の乗馬が砲弾で死ぬ。付近に、石兵団の負傷兵や住民がたくさんいる。樫木副官は、どう(洞)穴陣地や地形の偵察を命じ、各隊を分散配置した。このへんは、戦う場所ではなかったので、あすの戦闘にそなえたのである。

 どう穴内にはいる。まえに石兵団が、被服や糧まつ(秣)庫に使用していたどう穴だ。奥の方に大勢の負傷兵がいた。彼等は到着した山兵団にどう穴をゆずり、三十人ほどを残してみんな出て行ってしまった。

 ひとやすみしたころ、奥の負傷兵のかたまりから奇声があがった。苦しそうなうめき声は、どう穴にはいった時から聞こえていたので、樫木副官は氏家軍医中尉(宮城)佐藤軍医少尉(広島)真鍋衛生伍長(妹背牛)に見回らせた。奇声をあげた兵隊は発狂しており、負傷者は、いずれも重傷で、手のほどこしようがない―という。

 戦闘のなまなましさを痛感しているところへ、第二梯団岸隊長から報告。第一機関銃中隊の稲葉准尉、小野曹長(ともに山形)が戦死した―という。あの激しい砲弾下の夜間機動にしては、損害がすくなかった―と思う。

 二十三日二十四時、伊東大隊機動再開。第一線陣地の予定の占領地点へ向かう。その状況判断としては、

〈敵の第一線は、小那覇、上原、棚原の線らしい。和田部隊、吉田部隊は、すでに運玉森付近、幸地付近を占領しているらしい〉

戦記係から

 七師団戦記・「ノモンハンの死闘」の予約出版を受け付け中です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました