八月十五日午前十時から、北海道自治会館(札幌市北四西六)で北海道出身沖縄戦没将兵慰霊祭を行なう。その日が近づいた。当日は、関係者全員のご参列をお願い致します。
霊魂はあるか、ないか―記者自身は、その存在を実証するにたる人格に欠けているが、霊魂は存在するという信念にもとづいて沖縄で現地取材し、この戦記を皆様のご協力により書きすすめている。
琉球放送の真栄城勇放送課長から二月二十五日の「朝の訪問」(十五分間)で、何か話をするようにいわれた。沖縄にたいし、何の功績もない私が、名士のとりあつかいをうけるべきではない。辞退しようと思った。戦死した友人、戦友のことが胸にうかんだ。先方から声かけられたのだ、いまや反省の時機ではない、行動を要望されたのだ、さがるべきでない―と考え、課長との対談にのぞんだ。
「清水さんは、北海道の七師団戦記、あゝ沖縄取材のためこちらへこられて、約十日間、戦跡地をおまわりになられて、どんな印象をもたれましたか?」
私は、まず、沖縄全島の皆様に、あいさつがしたかった。
「沖縄の皆様には、北海道の山部隊が、戦前から戦後にかけて、いろいろお世話をいただき心からお礼を申しあげます」
北海道出身者が兵隊として親切にされたこと、いま、みたまとしてまつられていることにお礼をのべた。課長は、私の感謝の念を、聴衆にはっきり理解させようとして、第一の質問を強化する問いをつづけた。私は、それに対し、つぎのように答えた。
「沖縄は、守礼の国と聞いてきましたが、なるほど、どんないなかへ行っても、みなさんが礼儀正しく、尊敬の気持ちをこめて、ねんごろに歓待してくださることに感謝しております。この礼儀の正しさは、先祖をはじめ、戦死者に対しても同様でして、各村々のひとびとが、遺骨を集め、納骨堂を建てて死者のめい福を祈っておられるのをたくさん見ました。守礼の国は同時に霊魂を守る守霊の国でもあるという印象を強くしました。
最近は、他府県からシヨッピングにこられる人が多いと聞きましたが、物資と同時に、このような精神的な買い物をするところとしても、沖縄はいいところだと思いますので、私は、心の買い物をたくさんしてゆくつもりです」
その他、たずねられるままに思うことをのべた。対談が終わりごろになって、真栄城課長は「どうぞ、北海道と沖縄のかけ橋になってください」といった。無力な私には、不可能なことだ。だが、ここに眠る道産子とは、むすびつきを深くすることはできると思い「はい」と答えた。
帰ってきて、戦死者が遺族によせた遺言状、最後の軍事郵便手紙の数々を見せてもらった。そのすべてが、祖国の繁栄と、一家同胞の幸福に祈りをこめて書きつづられてあった。
南海の小島に眠りつづける戦死者たちの祈りのなかに、こうして生きながらえている私もまた、ふくまれていることを、戦記をつづりながらしばしば思う。
「遺族代表などと、はれがましい様子で、ご遺族のみなさまに顔をあわせる気持ちには、とてもなれないのです。そっと、会場の一隅から、おまいりさせていただきます」
こう言って顔をふせる病身の吉田列子さん(札幌南〇〇山三四七四部隊長吉田勝中佐未亡人)
一瞬、葉ずれの音をたてて草が輝く、沖縄の山野が思いうかんだ。
コメント