児玉昶光大佐は山口県出身。二カ月後の六月二十二日、金山均大佐(山三四七六部隊長)と島尻郡新垣の陣地で、軍旗を奉焼ののち、戦車攻撃用爆雷で自決したが、四月末ごろ、かげ口をいう者がいた。
「連隊長は、穴の奥に引っ込んでばかりいて、全然、外に出てこない・・・」
ひきよう者よばわりである。児玉大佐の声は重苦しく沈んでいた。
「私は命は惜しくない。だが、私が死んだら、志気が半減する。私は、みんなを死なせて、自分だけ絶対生きてはいないから、安心して陛下のため、命に従って死んでくれ」
兵隊は感激し、志気を奮い立たせた。
五月四日、総攻撃開始を命ぜられ、部隊長以下少数を赤田町陣地に残し、工兵部隊は前線へ出発した。
高野伍長(三笠市〇〇)は、原隊の第一中隊(長・江井金中尉・八戸)に復帰。中隊長の出発後だったので、指揮班長赤尾勝二曹長(夕張)に同行した。
石嶺陣地につき、ひる、ここで仮眠。先発隊が、先に着いて待っていた。陣地の山は、やわらかい地質だったため、爆撃をうけて小林兵長が生き埋めになる。救出作業に励んだが、砂くずれがつづき、助け出すことができなかった―という。
夜になって、石嶺陣地を出発。球部隊の野砲陣地に着く。夜が明け、迫撃砲弾の落下が激しくなった。全員地下陣地にとじこもる。
やがて砲撃がやんだので、各小隊から出発した。上空に〝トンボ〟が飛んできた。予想どおり、砲撃がはじまる。猛烈だ。高野伍長は赤尾曹長に、いま出てきた球部隊の野砲陣地に、引き返すことを進言した。
「中隊長殿が、先に行っておられる。引き返すわけにはいかぬ。いそげ!」
赤尾曹長は、前方の山とこちらの山との谷間を示した。敵はこの谷間を日本軍の前進コースとして監視していたようだ。前進しようとすると、猛烈な砲撃。前へ進めない。高野伍長はその場に伏せた。兵隊たちは、
「いま衛生兵に死なれたら、俺たちは看護してもらえなくなる。タコツボは、俺たちで掘ってやる」
といい、エンピで穴を掘りだした。絶え間ない砲撃。そのなかでの戦友たちの決死的な作業―いま思い出せば、感謝すべき光景だったが、心のゆとりは、まったくなかった。
砲弾サク裂。作業中の鳴海上等兵即死。赤尾曹長はひん死の重傷。高野伍長は伏せていたが左足に破片の貫通創をうけた。はって行って赤尾曹長に応急手当てをする。
「中隊長殿に申しわけない。俺が悪かった。切腹する。高野ッ、刀は、おまえに形見にやる」
「切腹したら、あとはどうなりますかッ!曹長殿、気をしっかりもってください」
高野伍長は赤尾曹長を背負いほかの軽傷者を励まして、まえにいた野砲陣地に引き返した。
いそいで、沖縄出身の兵数人に担架を作らせ、曹長ら負傷者を陸軍病院に護送した。
赤尾曹長は、入院後、間もなく死んだ。その知らせと、曹長の軍刀を持って連絡兵がきた。
「曹長殿が高野伍長にくれぐれもよろしくと申され、軍刀を渡すようにいわれました」
高野伍長は軍刀を握り締め、曹長のめい福を祈った。
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