141新聞報道 戦況を詳細に掲載 首里の地下工場で発行

 高野伍長はひとりになって、一晩中前線をさまよい、明け方近く石嶺の陣地にたどりついた。

前線の日本軍は、昼は地下陣地にはいり、敵の砲爆撃にまかせているが、夜になると猛攻を開始し、戦場の上空は、彼我のタマが激しくいり乱れてキモをうばわれるばかりだ。

 命令がはいった。〈友軍機三千は、英艦隊を発見、これを攻撃し、多大な損害を与えた。このため航空機の応援はないから、最前線の陸軍部隊、約二キロ後退せよ〉

 命令に従って前線指揮官は後退を下令した。

 このころ、首里の地下に工場をもつ沖縄新聞が発行されていた。山兵団の総攻撃を「見よ現地軍の赫々(かくかく)たる戦果、敵の遺棄死体三万五千、戦車の破壊五百以上…」

 などという見出しで報道していた。記事の内容は◎五月四日の総攻撃には、村松上等兵(高野伍長の同年兵)の属せる某小隊は、壮烈なる夜襲を敢行、一個小隊で敵一個中隊以上と戦いタマを撃ちつくしたこの小隊は小銃をさか手に持って敵兵をなぐり殺し、大損害を与えたが、後方から約一個大隊くらいの敵襲をうけ、遂に一人が帰還報告をしただけで全員壮烈な戦死をとげた。

 ◎松山少尉は、一個小隊をつれ敵陣深く潜入、戦車の前に地雷を埋めて帰った。

 よく朝、号令一下、敵戦車が前進するや、四十台がいっぺんに吹っ飛んだ。松山小隊はほとんど損害なく、その武勲にたいし軍指令官から感状を授与され、上聞に達せられた(じょうぶん=天皇陛下に報告申しあげること)

 ◎田口伍長は、兵三人を連れ敵陣に潜入。戦車三台、トラックその他車両数台を破壊、敵幕舎に手りゆう弾攻撃をくわえ敵約五十人を殺傷した。田口伍長ら四人のうち負傷者は二人である。

 第一中隊の香川文夫軍曹(室蘭)は、軍刀をつえに真っ昼間敵弾の飛んでくるなかに立ち

「アメリカのヘロヘロダマなんかおれにはあたらん」

 と平気な顔。隊員はその豪胆ぶりにおどろいていた。豪胆といえば、夜間切り込みに出撃した生還者は、米軍のたばこ、かんづめをかならず持ち帰って、みんなに分配していた。

 高野伍長、笠場軍曹らと一緒に酒もりをした防衛隊長西村准尉は直撃弾で全身を飛散させた。准尉の部下で高野伍長の親友・笠場嘉一軍曹(余市)は、重傷をうけ、五月十五日ごろ野戦病院で戦死した。安藤重太軍曹、第三中隊の小隊長・安田英二少尉(岩見沢)も戦死した。

 高野伍長は首里赤田町の部隊本部に帰った。中村正男軍医大尉(山口)に状況を報告、三浦正敏軍医少尉の治療をうけた。左足背部貫通砲弾破片創。治療がすんでから児玉部隊長に呼ばれた。

 伍長は部隊長に、前線付近の状況、友軍の善戦状況、敵軍の状態など、聞いたことや、推察したことを全部報告した。

 部隊長命令で、衛生下士官の前線出動は、高野伍長の負傷以後、厳禁された。

 伍長は看護婦四人の指揮を命ぜられ、衛生兵二人と、治療のため大里部落の陣地へ戻ることになった。

 夜、伍長ら七人は、資材弾薬を積んできたトラックに乗り、なつかしい大里へ向かった。

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