看護婦や女学生、韓国人、沖縄の招集兵が出ていったあとのドウクツに、無気味な沈黙がおとずれた。巨大な静けさである。ひろびろとした、遠い、深い静寂である。鋭敏な感覚でなくとも、そこはかとなく死のにおいがただよってくるのを感じないわけにはいかなかった。
カラ、カラ…カラ、カラ…
なにかでブリキかトタンの金属板をこする軽い金属的な音。かきまわされる低い陰気な水の音―白い粉末は、バケツの水にとかされた。
「オーイ…みんな、聞いてくれ…」
その声は軍人らしからぬ、涙でぐっしょりぬれた声だった。
つらくて、つらくてたまらぬ叫び―となって、ドウクツ内にこだまする。
「この、バケツの水のなかに…青酸カリが、はいっているんだ…」
こらえきれず、ついに、涙が、声をのむ。そして、ふたたび涙のなかから声が―
「これをのんで、さきに行ってくれ…」
声をはなって泣く。とめどもない涙が、しきりにほほをつたい、口もとが、こわばって、まんぞくにいうことがいえないらしかった。藤沢軍曹も涙をぬぐった。
〈なんの設備もない野戦病院。ここに収容された君たちも不幸だった。が、おれたちも、きょうまで、一心こめて看護してきたんだ・・・〉
あたらしい、あつい涙がわいてくる。目からあふれて鼻からも流れでる。
〈それなのに、いま、ここで、戦友のきみたちを、二百五十余人も看護してきたおれたちが、殺さねばならぬとは…〉
衛生兵たちは、みんな泣いていた。そのむせび泣きの声は、つよく、はげしい祈り、そのもののようにさえきこえていた。
〈ああ…これが、さようならか…これが、さようならというものなのか…〉
寝たままの重傷者たちは、しーんとして、声もなかった。身動きできない彼等―その宿命に従い、軍命令に従う姿は、すでに、この世のものとは思えなかった。
死もおそれず、人間の醜悪さもとがめず、すべてを見通しにすることのできる存在がここにある。それは、巨大な力をもった、偉大ななにものかではないだろうか―それがいま、みにくい人間の小さな約束に、なんらの抵抗、反発もしめさず、静かに従おうとしている。
崇高さが身に迫ってきた。後光がさす―ということばがあるが、仏や菩薩のからだから発するひかりをあびているような崇高な感じに、めまいがし、気が遠くなるような気持ちになってきた。
〈「このままではいけない。すべては決まっていることなんだ。…」しなければならないことなのだ…さようなら…さようなら…〉
命令下達―A衛生兵は一号病室、藤沢軍曹、五味伍長(長野県)は二号、三号病室で実施せよ―
三人は、それぞれ容器を手にとり、バケツから水をくんだ。命令された受けもち場所へ進み重傷者の口もとへ容器をあてがい、ひとりひとりにのませて歩いた。
だれからともなく戦陣訓をとなえる声―ドウクツ内にこだまし、だんだん高く、大きくなり重傷者全員、声をかぎり、命あるかぎり、涙をながしながら…
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