156雨だれの音 死臭の中さまよう 暗やみのドウクツを

 脱出は不可能―藤沢軍曹は判断した。だが、敵陣となったところの地下に、とじこもっていることも不安がつのるばかり。翌六月七日、五味伍長と連れだって、敵弾のなかにしのび出た。ふたりは、照明弾と猛射に、水田のなかをはって逃げた。夢中だった。気がついたとき、五味伍長の姿がなかった。

〈戦死したかな?…それとも、うまく逃げてくれたか?〉

 安否を気づかう思いが、一瞬、脳裏をかすめる。捜したい。だが、その衝動は敵弾の猛烈さに、さえぎられ、行動にうつれない。

〈このタマのなかだ。きっと戦死だろう・・・〉

 そう思うと、急に心細くなった。原隊を追うことはあきらめた。まえにいたドウクツへ、タマのなかをはって戻った。

 一号病室入り口につく。なかは、まっくらだ。マッチは、水田をはったときにぬらしてしまった。ムッとする死臭、ザワザワと無気味なウジの音のなかを手さぐりで進む。いままでいた三号病室がなつかしい。すると、五味伍長が恋しくなってきた。

「五味君…五味君…」

 三号病室へ進みながらよぶ。その声がドウクツ内にこだまする。自分の声ながらおそろしさが耳に迫ってくる。

〈五味はいない。この広いドウクツは死人ばかりだ。大きな墓場なんだ。生きているのは、自分ひとり…〉

 胸をしめつけられるような孤独感。突然、やみのなかから―「だれだっ!」

 異様な大声がこだました。おそろしさに総毛だち、全身が細る思い。

〈みんな死んだと思っていたが、まだ、生きていた者がいたのか…〉

「あ、友軍か…」

 軍曹は、声のしたほうに歩いていった。

「そうです。だれですか?」

 やみのなかからの問い。

〈ここに、処置しなかった傷者が生き残っている〉

「俺だ、藤沢軍曹だ。わからないか?」

「わかりません。だれでもいいです、私にカンパンをください」

〈かわいそうに腹をすかせて…〉

「いまはない。俺も腹がすいているんだ。見つけたら持ってくるぞ」

「あ、そうでありますか。たのみます」

〈三号病室へ行けば、方向もわかる。炊事場へも行ける〉

 軍曹は、足もとに気をつけ、そろり、そろり奥へ進んだ。

 ポターン…ポターン…

 静まりかえるやみに、雨だれが、トタンに落ちてひびく。

〈三号病室だな…〉

 雨だれの音をたよりに進んでいった。つまずいてころんだ。雨だれの音は、あちこちから聞こえてくる。耳をすませばすますほど、どちらからもきこえてくる。どっちへ進めばいいのか、進行方向が、全然わからなくなった。

〈えーい、どうにでもなれッ!〉

 やけくそになって歩く。足にまかせて進む。つまずく。ころぶ。いまきた方向がわからなくなる。突然、無気味な笑い声―「イヒッヒッ、ヒッ、ヒッヒッ…」

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