島尻地区へ後退した日本軍は捨て身の切り込み戦で米軍に対抗していた。米軍は陣地のまわりにかくしマイクやピアノ線をはりめぐらして警戒にあたり、これに切り込み隊員がふれると照明弾があがり、集中射撃をあびた。
ある夜、友軍機が飛来して日本軍のいるところに箱が投下された。杢大伍長は箱の外側に「東軍勇士より がんばれ」とかかれてあるのを読み箱をあけた。小銃十数丁がはいっていた。
すでに自決用の弾薬しか持っていない友軍にとって、これはありがたい贈り物だった。
武器ばかりではない。将兵は戦いにつかれ、軍服はやぶれて全員が負傷していた。銀バエがきずぐちにたまごをうみつけ、ウジがわいている。食糧はかびたカンパンか、むれた米、なまのサツマイモ。水筒に水をもっている者はいなかった。
杢大伍長ら日本軍将兵はかねがね戦闘目標として「一人十殺一戦車」をきめられていた。ひとりの兵は、敵兵を十人殺すか一台の戦車をやっつける―という意味である。
兵隊も学生たち(沖縄師範、県立第一中、第二中、第三中、県立農林、県立工業、県立水産市立商業、私立開南中)も敵戦車に急造爆雷をかかえて飛び込んでいった。
敵の戦車部隊は、この肉薄攻撃をおそれ、戦車のまわり五、六十メートル範囲に火炎放射をしながら進んでくるようになり、肉薄班はつぎつぎと倒れた。
六月二十日ごろになると、敵の攻撃は島尻地区に対して、激しくなり、空からは爆弾、海からは艦砲、陸上では重砲、迫撃砲、空は黒煙りと赤黒い火につつまれ天も地もサク裂するようなすさまじさ。おびただしい死体の散乱で足のふみ場もないほどだ。生きている者の顔も、人間とは思えない顔をしている。死も生もおそろしさも忘れたように、ただぼんやりさまよい歩いている。たましいのない人間のぬけがらだ。
六月二十一日、生残り将兵は各部隊本部に集合、軍司令官から全軍総攻撃の命令をうけた。
真壁部落のゴウにいた杢大伍長は、水上准尉から総攻撃に対する新任務を命令された。
「杢大伍長は、兵一人をつれ八地区(輜重隊でかりの名をつけてよんでいた弾薬貯蔵地点)の弾薬を歩兵部隊にひきわたしのため、ただいま出発すべし。現地にいる岡田曹長と交代し、曹長はこの本部へただちにもどるよう伝えること」
ふだんおとなしい水上技術准尉とは思えないきびしい態度。伍長はふくしょう(うけた命令をそのままいうこと)しながら胸いっぱいになった。
〈満州時代以来、准尉殿、准尉殿と自分をはじめ、部下のみんながしたっているこの人とももう、これでお別れだ…〉
「准尉殿…」
伍長は、どうしても思いきれなかった。
「どうせ死ぬなら、自分も部隊長殿や准尉殿と一緒にたたかって死なせてください。お願いです」
〈みんなと別かれ、ひとりで死ぬのはさびしい…〉
みるみるうちに准尉の両眼に涙がわいた。
「杢大、おまえの気持はわかる。だが、部隊命令なのだ。ゆるせ。…早く行ってくれ。たのむ…」
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